寒水中島の金子氏

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寒水中島の金子氏

 明宝寒水の家号中島家は、源頼朝(1147〜1199)の家臣金子十郎家忠(1138〜1216)の父六郎家範(生没年不詳)の後裔であるという伝承がある。
 平良文流の平頼任が北多摩郡村山に住んで村山氏と名乗り、村山頼任の子孫一族を村山党と呼ぶ。
 その主な一族に金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがあるが、 金子氏は頼任の孫六郎家範が武蔵国入間郡金子(現埼玉県入間市金子)に移り住んで金子氏を名乗ったことに始まる。

 金子家範の子十郎家忠は源頼朝に仕え、源平合戦では義経軍に属して一の谷の戦い(1184)など数々の軍功をたて、本領の金子郷のほか播磨国斑鳩荘などの地頭職になった。
 家忠の子家高(1165頃〜1213)も頼朝に仕え和田の乱(1213)では和田氏に与して北条方に殺された。
 家忠は頼朝、頼家及び実朝の三代に仕え、建保四年(1216)に亨年七十九歳で没した。
 頼朝の家臣である金子氏が義経軍に加わって戦ったことはあるが、義経に仕えた家臣の中に金子氏を名乗る武将はいなかった。

 村山頼任─頼家─金子家範┬高範(難波田氏)
             ├近範─近吉─範景
             └家忠┬家親
                ├家高┬広家
                │  └時家
                └家広─家繁

 郡上郡寒水村へ下向した金子某は五輪塔のうち水、風及び空の部分を持って来たと伝えられ、寒水中島家の墓にその石を使用した五輪塔があったという。
 金龍山本光寺の本堂北側には弁慶岩と称されるひび割れた岩があり、「義経一行が寒水の地を通る時此処の天神前で休息し、出発する際に弁慶が腰かけていた岩を持っていた金棒で突いた時にヒビが入った」という伝承もある。
 頼朝の追討から逃れようとしている義経に追従していた者が五輪塔の一部を持っていたなどという愚かなことはあり得ないことであり、然も持ち運べる程小さな五輪塔を立てることは武士の恥で当た時代である。
 寒水中島家の墓にあったという五輪塔は、寒水修善坊が天台宗であった頃に寒水中島家が既に寒水に居住していたことを示すものであり、作成したものではなく近辺で拾い集めた石で構成したものであったものと思われる。
 墓地にあったのを見たことがあるが自然石の小さなもので、伝説に基づき昭和の時代になってから置いたものであろう。
 五輪塔は下から、方形の地輪、円形の水輪、三角形又は笠形、屋根形の火輪、半月形の風輪、宝珠形又は団形の空輪によって構成され、それぞれの部位には下から「地、水、火、風、空」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。
 これは密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあることから下から読むが、 天台宗や日蓮宗では「妙法蓮華経」の五字、浄土宗や浄土真宗では「南無阿弥陀仏」の六文字を上から読む。

 明治の半ば以後の史料も知識も貧しい時代に、二十八代目としている兄の早世により当主の中継ぎをした弟が隠居後の暇潰しに創作したもので、木簡を利用した過去帳(繰り出し位牌)も初代から二十八代目までのものは筆跡から同一人物が書いたものであることが容易にわかる。
 本光寺にある弁慶岩の伝説は、先祖が天神社を祀ったとされる前の布頭家の末裔が創作したものと思われる。

 

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