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凌霜隊(りょうそうたい)

  戊辰戦争から百五十年が過ぎた今年のNHKの大河ドラマは「西郷どん」である。
 これを見ていて凌霜隊のことを思い出し、Webサイトのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の「凌霜隊」の記事を主な出典元として引用しながら凌霜隊のことを私なりにまとめてみた。
 はじめに
 室町幕府は承久の乱の論功行賞として下総国香取郡東庄(現千賀県香取郡東庄町)の東胤行を美濃国郡上郡の山田庄新補地頭に任じた。
 その十一代目当主常慶は本拠とする山田庄の篠脇城(現郡上市大和町)を越前国朝倉義景(よしかげ)に攻められた時、大きく損傷した城の修復を諦めて曾祖父益之の時代に六代美濃守護土岐頼益の郡上侵攻に際し吉田川下流域左岸中野の山腹に地元農民が協力して山や河原の石を運び上げ要害を設けた山(現犬鳴山)に砦を設けて気良庄中野に本拠を移した。
 その常慶の嫡嗣子常堯の指示によって兄を暗殺された遠藤盛数は義父及び義弟である常慶及び常堯父子を攻めて追放し、その対岸の八幡山山上に城を築いて八幡城とした。
 その子慶隆は羽柴秀吉によって転封させられたが、関ケ原の合戦を前に徳川家康に属して郡上八幡を奪い返した。
 八幡城はその前後の歴代城主によって改修され、特に遠藤氏四代藩主常友は新田開発や城郭の規模拡大、城下町の建設などに尽力した。
 遠藤家は四代常春が不審死して四歳の庶子若松が常久を名乗り五代藩主となったが八歳で毒殺されて郡上藩主遠藤家は無嗣改易となった。
 元禄十年(一六九七)に金森氏初代郡上藩主となった頼旹の死により、元文元年七月十八日(一七三六)に頼旹の孫頼錦(よりかね)が金森氏二代郡上藩主になった。
 頼錦の時代の宝暦二年(一七五二)に郡上藩領内である越前国大野郡石徹白村(いとしろむら:現岐阜県郡上市)において神主世襲騒動(石徹白騒動)が起こり、 宝暦五年八月十二日(一七五五)には郡上農民七十余人が蜂起して郡上一揆が始まった。
 神主世襲騒動及び郡上一揆による箱訴が度々行われたことにより、宝暦八年八月(一七五八)、終に幕府はこの二つを合わせて詮議を行うため幕府評定所を設けた。
 宝暦八年十月二日(一七五八)に幽閉謹慎中の金森頼錦は改易となって直ちに陸奥国盛岡藩南部氏八代藩主南部利雄(としかつ)の南部家に永預けとなった。
 宝暦八年十二月十五日(一七五九)に幕府評定所で最後の裁き申し渡しがあり、郡上農民のみならず老中など幕府要人までが大勢処分されるという前代未聞の一大事件として「宝暦騒動」と称される。
 宝暦八年十二月二十七日(一七五九)に丹後宮津藩青山氏二代藩主幸道(よしみち)が四万八千石で郡上藩へ入封した。
 この青山幸道は、額田郡岡崎村百々に居住し松平長親から松平改め徳川家康までの松平氏五代に仕えた青山忠門の六代裔である。
 青山氏は「忠」と通字(とおりじ)とするが、忠門の子忠成(ただなり)の四男が幸成(よしなり)を名乗り、この系統は「幸」を通字とした。
 十一代将軍徳川家斉の子竹千代の早世により嗣子となった敏次郎が寛政九年三月一日(一七九七)元服して家慶を名乗った。
 これにより青山氏二代郡上藩主幸完(よしさだ)は「よし」の呼びが将軍の嗣子と重なったことを憚って「ゆき」に改めた。
 六代藩主幸哉(ゆきしげ)は初代藩主幸道の弟忠高の孫で、日本で最初にメートル法を紹介したとされる「西洋度量考」の編者として知られる。
 最後の七代藩主幸宜(ゆきよし)は、文久三年(一八六三)の父の死により十歳で家督を継ぎ、十五歳の時に戊辰戦争が始まった。
  因みに、新政府軍側を勤王派、尊王攘夷派又は討幕派などと呼び、これと相反する旧幕府側を佐幕派(「幕府を補佐する」の意)とも呼ぶ。
 また、凌霜隊が会津へ向かった会津西街道は下野街道、江戸街道又は南山通りとも呼ばれ、若松城下から福永宿-関山宿-(氷玉峠)-(大内峠)-大内宿-(中山峠)-倉谷宿-(八幡峠)-楢原宿-田島宿-川島宿-糸沢宿-(山王峠)-横川宿-中三依宿 -五十里宿-高原新田宿-藤原宿-大原宿-高徳宿-大桑宿-今市宿まで十七宿があった。
 なお、旧暦はその月日によって西暦年が異なることがあるので、和暦の後に括弧書きすることとした。
 凌霜隊結成の経緯
 幕末の動乱期、郡上藩青山家においても勤王派及び佐幕派に分かれて激論が繰り広げられる中で藩主幸宜は佐幕派として行動していたが、二月になって東海道鎮撫総督が東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始すると東海道最大の雄藩尾張藩が勤王派に転じ、これをきっかけに郡上藩も勤王派と決した。
 しかし、青山家の江戸藩邸に於いては徳川家譜代の家臣であったことにより情宜的に佐幕の雰囲気が強く、脱藩してでも新政府側に抵抗しようと考える者が多かった。
 慶応四年三月(一八六八)、国元の決定に納得できない江戸詰め藩士の有志四十五名により江戸家老朝比奈藤兵衛の子茂吉(当時十七歳)を隊長として江戸在番の脱藩士四十五名による部隊を組織して、霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉の葉菊が青山家の家紋にあることに因み「凌霜隊」と名付けた。
 結成の経緯については、国家老鈴木兵左衛門と江戸家老朝比奈藤兵衛の対立説がある。
 また一説に若年の藩主幸宜に代わって国家老及び江戸家老が相談の上で幕府側が勝利した際の事も考慮して藩の存続をかけた二股的な戦略を江戸家老朝比奈藤兵衛が主導したという説もある。
 江戸脱走から会津戦争
 慶応四年三月(一八六八)の十三日及び十四日に行われた大久保一翁及び勝海舟対西郷隆盛との会談で江戸城明け渡しが決まった。
 これに不満を抱いた旧幕府勢力は江戸を脱走し徳川家の聖地である日光において新政府軍と戦うべく下野国日光を目指すこととなった。
 凌霜隊もこれに合流するため江戸本所中の橋菊屋に集まって此処を出発し、村上求馬を隊長とする草風隊と同じ船で江戸川を遡った。
 四月十一日、江戸城は無血開城となり、将軍徳川慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発した。
 十五日、関宿藩内である上野国日光例幣使街道四番の境宿(現伊勢崎市境で広瀬川右岸)において草風隊、松平兵庫頭を隊長とする貫義隊など旧幕府側の諸隊と合流し北上を急いだ。
 この頃、既に宇都宮城を管轄下に置いていた新政府軍の軍監香川敬三は旧幕府軍を攻撃するため日光街道小山方面への進軍を命じていた。
 十六日正午頃、小山宿で両軍の戦闘が開始され、新政府軍の主力である笠間藩兵の武器は手槍しか持っていなかったのに対し、伝習隊を中心とする旧幕府軍に合流した凌霜隊、草風隊及び貫義隊は最新式の連発式ライフル銃(設計者名から通称スペンサー銃)を装備していて人数で勝る新政府軍に勝利した(第一次小山の戦い)。
 十九日、宇都宮へ転進してきた旧幕府軍は、宇都宮城に籠る宇都宮藩兵を中心とする新政府軍と対戦した。
 二十日に旧幕府軍が宇都宮城を占領したが、二十三日の「宇都宮城の戦い」で新政府軍に奪い返された。
 日光での決戦に向けて宇都宮から退却した旧幕府軍は日光例幣使街道(東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道)及び会津西街道(現国道百二十一号線の前身)の分岐点である今市宿(現栃木県日光市今市)に集結したが、日光での決戦を諦めて会津へ向かうことになった。
 凌霜隊は日向内記(会津藩士で白虎隊士中二番隊隊長)が指揮する会津藩兵と共に会津西街道横川宿(現栃木県日光市横川三百五十番地周辺)まで行った。
 二十五日に今市宿方面で戦闘中(今市の戦い)との情報を得て転進し、三宿戻って会津西街道高原新田宿まで行ったが戦闘には参加せず高原新田宿に駐屯した。
 慶応四年閏五月七日(一八六八)、凌霜隊は会津藩の指揮下に入り、以後高原新田宿、藤原宿(現日光市藤原字宿内辺り)の守備に就き、会津藩からは隊士に手当金が支給された。
  会津西街道は藤原宿辺りで国道百二十一号線から東へ入り現在の日塩有料道路沿い辺りを北上していたものと思われる。
 五月十日、会津藩士小山田伝四郎の指揮下で塩谷郡塩原村(現栃木県那須塩原市塩原)の守備に当たることとなり塩原に着いた。
 八月十八日、若松方面の戦況不利に伴い塩原から撤退することとなり、「敵方にこの地が使われないように一軒残らず焼き払え」との命令を受けた。
 凌霜隊士は「三カ月余りもお世話になった地を焼き払うのは忍びない」として、隊の宿舎であった丸屋、和泉屋及び妙雲寺は後で組み直せるように解体することを決め、直ちに柱に番号を付けたり、寺宝を運び出したり、各家には運び出せる物は運び出して置くことを伝えるなどの行動を開始した。
  妙雲寺の釈迦堂の格天井には八十八枚の菊花紋章があり、凌霜隊は天子様に背いているのではなく青山家の家紋の一部にもなっているとしてこれを焼くことに躊躇する隊士もいたことから一計を案じて「図を別物に改ざんして皇威を打ち消せば心理的に抵抗感が薄れるであろう」として墨で紋章に〆印を付けることにした。
 そんな最中、隊の密使となって会津若松へ偵察に行っていた村民の渡辺新五右衛門が帰村して焼き打ちの仕打ちに驚き「せめて村の菩提寺だけは焼かないでくれ」と懇願した。
 凌霜隊はこれを受けて本堂から離れた風上の畑に薪を積んで寺を白煙で覆うことを考えた。
 丸屋及び和泉屋は旅館として現存しており、妙雲寺の格天井に〆印が付いた菊花紋章を見ることができる。
 八月二十二日、予め最後尾を担当することにしていた凌霜隊は薪に火を着けこれで寺に放火したことにして塩原を後にした。
 二十三日、新政府軍は岩崎城下に入り、若松城は籠城戦に入った。
 二十四日、横川宿に到着し会津藩兵はそのまま若松へ向かい、残った凌霜隊ら百二十四名が横川宿で守備に就き、翌日攻め寄せた新政府軍と戦闘となり一時はこれを撃退したが戦況が悪化して撤退した。
 二十八日、会津西街道大内宿(現福島県南会津郡下郷町大内・楢原宿辺りで国道百二十一号線から西側へ逸れて県道百三十一号線を北上し、県道三百二十九号線との分岐点を過ぎた辺り)に到着した。
 翌日早朝から新政府軍と戦闘になって会津側は敗北し凌霜隊も大内峠に撤退した。
 三十日未明、大内峠で戦闘となり敗北して此処からも撤退した。
 九月一日から三日にかけて会津西街道関山宿(会津若松城下から二つ目の宿)で新政府軍と交戦し、この時関山宿の殆どの建物が兵火の為に焼失した。
 戦死した会津藩兵四十名の墓碑がありその激戦の跡を現在に伝えている。
 撤退した会津藩兵などの旧幕府軍はその時の混乱で散り散りになったが、次第に合流して若松城を攻囲する新政府軍の隙をついて四日に若松城下に入り会津藩士秋月悌次郎宅を拠点とした。
 先行していた朝比奈茂吉隊長ら一部の凌霜隊士は既に入城していた。
 六日に凌霜隊全員が若松城に入城して白虎隊士中二番隊の隊長日向内記の指揮下に入り白虎隊士中合同隊と共に西出丸の守備に就いて、その後、会津藩兵らと共に攻め寄せる新政府軍と激戦を繰り広げた。
 明治元年九月二十二日(一八六八)、会津藩が降伏したことにより凌霜隊もこれに従って新政府軍に降伏し、城を出て猪苗代(現福島県耶麻郡猪苗代町)で謹慎した(会津戦争)。
 会津藩が降伏した時の松平氏九代藩主容保(かたもり)は、美濃国高須藩(現岐阜県海津市海津町高須町)松平氏十代藩主義建(よしたつ)の六男である。
 弘化三年四月二十七日(一八四六)に高須松平家の実の叔父で会津藩松平氏八代藩主容敬(かたたか)の養子となった。
 嘉永五年二月十日(一八五二)に藩主容敬が亡くなって二月十五日にその跡を継ぎ会津藩松平氏九代藩主肥後守容保となった。
 戦後
 明治元年十月十二日(一八六八)、投降した凌霜隊士らは郡上藩預けと決まり郡上八幡へ護送されることとなった。
 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破して贄浦(にえうら:現三重県度会郡南伊勢町贄浦)に上陸し、元凌霜隊士三十五名が郡上八幡城下に到着したのは十一月十七日のことであった。
 藩では元隊士を脱藩の罪人として扱い赤谷の湿地に位置する揚屋(あがりや:特別な牢獄)へ監禁し、湿気が多く風通しも日当たりも悪くて生活は苦しく病人が続出したことから元隊士は場所の変更を何度も求めたがすべて却下された。
 その頃、塩原の臨済宗妙心寺派甘露山妙雲寺(現栃木県那須塩原市塩原)の住職から京都の本山臨済宗妙心寺派正法山妙心寺(京都市右京区花園)へ「凌霜隊の機転によって塩原の妙雲寺は焼失を免れた」ということが報告されていた。
 本山妙心寺は郡上にある末寺の臨済宗妙心寺派鐘山慈恩護国禅寺(現八幡町島谷)へ妙雲寺のことについて郡上藩に対して本山としての礼を述べるようにと伝えてきたが、慈恩寺住職は「郡上では彼ら元隊士は罪人として幽閉されている」ということを伝えた。
 明治二年五月(一八六九)、本山の後押しを得た慈恩寺住職は郡内には真宗寺が多いことから浄土真宗大谷派光耀山長敬寺(ちょうきょうじ:八幡町職人町)の住職に相談し、郡内の各寺に元隊士の処遇改善を手助けする呼びかけを始めた。
 これにより宗派を越えた支援の輪が広がり、元隊士は長敬寺に移されることになった。
  藩では当初、元隊士らを処刑するつもりであったが、九月の新政府の命令により自宅謹慎となった。
 翌明治三年二月十九日(一八七〇)には謹慎も解かれて赦免された。
 しかし、元隊士の多くは生まれて初めて郡上郡に来た者や郡上郡の出身者ではなかった者もあって郡民の目は厳しく一部の地元出身の元隊士も含めてその多くが郡上八幡の地を離れた。
 凌霜隊副隊長兼参謀であった速水小三郎行道は日記をつけており、隊士の一人であった矢野原与七は手記「心苦雑記」を記している。
 朝比奈茂吉は朝比奈家の家督を弟辰静に譲り、父の実家である彦根井伊家の付家老椋原家千二百石の婿養子となって名を義彦と改めた。
 本宅の裏に別宅を設けて父、弟辰静及び妹成子などを呼び寄せて一家の面倒を見た。
 明治二十二年四月一日(一八八九)に滋賀県犬上郡の七ヶ村が合併して新たに誕生した青波村(現彦根市彦根城の南東側及び南西側隣辺り)の村長となった。
 明治二十七年(一八九四)、村長在任中に享年四十三歳で急逝した。
 おわりに
 郡上八幡城の麓にある山内一豊と妻の像の南東側隣に岸剣神社があり、その神社への南側参道階段の上り口左側に「凌霜隊之碑」が建立されており、昭和十五年(一九四〇)に凌霜隊の愛郷と団結の精神を偲び郡上郡青年団がこの顕彰碑を建立したということが刻されている。
 また、郡上八幡城天守閣裏(北隣)には凌霜の森がありそこには凌霜隊慰霊碑がある。
  碑に刻まれている題字は参謀速水小三郎行道の日記にある「抑道ハ一筋ナリ、君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ、皇国ノ御為ナリ、真ノ勤王ナリ、是ニ反セルハ不忠ナリ、不義ナリ、不孝也、国賊也、禽獣也、予子孫タル者熱く是理ヲ弁知スベキ也。」から抜粋され一言である。
 碑文
 「道ハ一筋ナリ 小三郎(篆刻印) 速水行道自筆「日記稿」より 凌霜隊略記 明治維新の前夜天下が勤王佐幕の両論に揺れ動いていた頃譜代大名青山家の藩論も容易に決しかねていた。しかし江戸在番の郡上藩士ら四十五名は、徳川家の恩顧に報いるため会津救援を決意し、弱冠十七才の朝比奈茂吉を隊長に脱藩して凌霜隊を血盟し遠く会津を志した。時に慶応四年四月十日のことである。途中小山宿、宇都宮、横河宿、大内峠、関山宿などで激烈な戦闘を繰り返しつつ、様々な辛苦の末、四月六日遂に若松城に入城した。城内では白虎隊と共に西出丸を守ったが時に利あらず降伏城明け渡しとなり凌霜隊も涙をのんで從った。明治と改元された十月十二日旧藩お預け郡上へ護送となり、江戸から船で伊勢へ向かう途中難船、同三十日贄浦に上陸し、十一月十七日郡上へ到着した。藩では脱走者として、謹慎を命じ赤谷の揚屋へ収監した。戦死、行方不明を除く三十五名の者が、許されて自由の身になったのは明治三年二月十九日であった。」 。
 続いて四十五名の名前が刻してある。
 また、福島県会津若松市一箕町にある標高三百十四米の飯盛山には、岐阜県知事上松陽助(知事在任期間:昭和五十二年(一九七七)二月~平成元年(一九八九)二月)揮毫による「郡上藩 凌霜隊之碑」があり、参謀速水小三郎の日記の一文から採った「道ハ一筋ナリ」の碑文碑もある。
 碑文
 「道ハ一筋ナリ 副長 速水小三郎 此の碑は戊辰の戦に会津侯を盟主と頼み各地に転戦して若松城の籠城戦に参加し白虎隊と共に奮戦死闘した美濃国郡上藩凌霜隊の事績を偲び且つその霊を慰め永くこれを後世に伝えるため郡上の石で郡民等の浄財によって建立したものである 昭和五十九年(一九八四)九月吉日 建立者 郡上藩凌霜隊碑を建てる会建立」



(完)

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