明宝寒水の変遷

本文へスキップ

明宝寒水史は校正が不十分です。当サイト「改訂版明宝寒水史」をご覧ください。

TEL. 0575-87-0000

〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

明宝寒水の変遷

 明宝寒水(めいほうかのみず)を囲む四方の山は位山の分水界山脈の支脈で烏帽子岳を起点として弧を描くように南西から南東へと標高を下げ、明宝地区以外では郡上市白鳥町、大和町、八幡町及び高山市荘川町と隣接している。
 この位山は上古全山に一位の木が繁茂しており、この木が笏材に賞用されたので位を賜って一位の木と称し、山を位山(くらいやま)と言うようになったと伝わる。
 吉田川の支流である寒水川の全長約十一粁はその源を烏帽子岳の南西の斜面から発して大小四十有余の洞谷の水を集めて南に流れ、石仏(いしぼとけ)から棚井(たない)までは八幡町地内を流れて吉田川と合流する。

 寒水史(佐藤宮次郎著)に「平将門関東八州を占拠せんとす謀反のために誅せられ其一族身の危険を恐れ諸方に流浪し流れ流れて此の寒水の地に入る。〜中略〜寒水に入るには先づ一つの難所あり即ち現今の口明方(くちみょうがた)村界の歩岐である云々」という件がある。
 平将門や源義経にまつわる伝説は各地に多くあり平将門の一族が寒水へ落ちてきたということは有り得ないが、口明方村界の歩岐というのは寒水川が吉田川に合流する棚井辺りのことで、この辺りの右岸側は険しい山肌で深い渓谷となっている。

 吉田川右岸側を遡ってこの旧口明方村の歩危に阻まれ行き止まりになった辺りにできた集落の里人は、烏帽子岳の方から流れて来る水を神の水と崇めその水が流れる洞谷を神の谷と呼んでこの集落は神谷郷(かみのたにのさと)と称された。
 明方筋は郡上郡始置の経緯からすれば安郡郷の中にあったものと考察するが、寒水川流域は安郡郷又は栗栖郷のいずれに属したかは不明である。
 これは寒水川流域は四方を山に囲まれていて下流側の歩危により気良庄及び山田庄のどちらからも人跡未踏の地であったことからどちらの荘園にも属していなかったものと思われる。

 室町時代に山田庄の地頭として東氏が入郡してからはその一族が田地を探し求めて牛道川や栗栖川及び古道川などの流域を遡り、更には峠を越えて寒水川流域の右岸側まで入り込んだのが寒水村の始まりと思われる。
 寒水の地へ入った農民は烏帽子岳の方から流れてくる川を、神水川(かみのみずのかわ)と称し、この川を隣接する気良庄との境と見做して左岸側へは入植しなかったことが窺える。
 東益之が自領の小駄良流域から寒水を経て西気良と繋ぎ明方筋を領するようになってからも寒水の左岸側への入植は行われず、東氏を滅ぼした遠藤氏の時代になると木越城主が元山田庄側を領し八幡城主が元気良庄を領した。
 東氏の時代に寒水村を形成した一族は木越城主が配置した遠藤善右衛門の配下であり、郡上遠藤氏が秀吉によって移封させられた時に善右衛門及びその一族はすべて寒水の地を離れた。

 前は八幡城主であった遠藤慶隆が関ケ原の合戦が始まる前に家康の許しを得て八幡城を奪い返し、八幡城主に復帰してから十年程後に寒水村が荒廃していることを知った慶隆は、先年の移封時に帰農していた元家臣の和田次郎左右衛門に寒水の再開発を委託した。
 これを請けた次郎左衛門は数十年前まで善右衛門が居住していた館に仮住まいして、寒水村へ移住するための準備を行った。
 未開発の寒水川左岸側の歩危に近い所に自らの屋敷を構え、その隣に西気良村を中心に跡継ぎではない者を呼び寄せて住まわせるための番屋を構え、歩危の上流側に次右衛門の屋敷も構えた。
 また、寒水村には浪人となって残っていた者もおり、これらの人たちと協力して白山大明神の境内を新たに設けて移した。これが現在の白山神社である。
 この後、正式に西気良村の家屋敷は売り払って、新たに設けた寒水村の屋敷へ家族揃って移り住みんだ。
 次郎左衛門は寒水村を荘園時代の領家職にようになって管理し、寒水川左岸の歩危を境にして下流側を長嫡次左衛門に上流側を次右衛門に管理を任せた。
 寒水村に残っていた浪人や他村から呼び寄せて番屋に住まわせた者に、開墾意欲を高揚させるために自分で開発した所及びその隣地の山などで望む者は自分の土地としてもよいとした。
 これが荘園時代の領家職にあった者のようであったことから、次郎左衛門は寒水村の衆民から領家と呼ばれるようになった
 現在ある領家の和田家や番屋の熊崎家の家号は、後の検地帳に村役が屋敷名として記載したのがその起源である。

 神水(かみのみず)の村は「かのみず」と呼ばれるようになって寒ノ水、嘉ノ水又は鹿ノ水などの文字が当てられるようになり、「寒水(かのみず)」と呼び記すことが定着したのは明治時代半ばを過ぎてからのことである。
 吉田川支流の寒水川流域に位置する美濃国濃州郡上郡寒水村は明保(みょうのほう)筋と上保(かみのほう)筋を結ぶ山道の要衝で、明治の初め頃までは長良川の支流吉田川上流域に寒水村、大久須見(おぐすみ)村、神谷(かみたに)村、二間手(ふたまて)村、東気良(ひがしけら)村、西気良(にしけら)村、畑佐(はたさ)村、奥長尾(おくなご)村、口長尾(くちなご)村、漆原(うるしばら)村、鎌辺(かまべ)村、坂本)村があった。

 明治八年(1875)に東気良村及び西気良村が合併して気良村になり、奥長尾村、口長尾村、漆原村、鎌辺村、坂本村の五箇村が合併して奥住(おくずみ)村になり、同年、大久須見村及び神谷村が合併して大谷(おおたに)村になった後、明治二十二年(1889)に旧神谷村は有穂(ありほ)村へ吸収されたが大谷村の村名はそのまま残った。
 明治三十年(1897)四月一日に吉田川上流域の寒水村、大谷村、二間手村、気良村、畑佐村、奥住村の六箇村及び飛騨川の支流弓掛川上流域の小川村が合併して奥明方(おくみょうがた)村となり、旧七箇村の村名は大字となった。
 同日、初納(しょのう)村、小野村、旭村、市島村及び有穂村が合併して口明方村となった。
 昭和二十九年(1954)十二月十五日に口明方村が八幡町へ合併しし、昭和四十五年(1970)四月二十日、奥明方村は「奥」の文字を省略して明方(みょうがた)村に改称するとともに大字の標記を削除した。

 「寒水(かのみず)」の呼称は、昭和二十二年(1947)四月の新学制実施に伴って学校名が村立寒水小学校に改称されると共に明方中学校寒水分校が設置されるとともに、新任の小学校長が中学の分校長を兼任し、この校長が「寒水」を「かんすい」と呼び、「明方」を「めいほう」と呼んで、これを正す者がいなかったことからそれぞれ「かんすい」及び「めいほう」の読み書きが定着してしまった。

 昭和三十年代の初めに学業を終えて寒水の寺院本光寺へ戻った住職は「寒水」の誤った呼称を本来の呼び方に戻したいと考え、教育委員会やマスメディアなどを通じて尽力を重ねた結果、平成の時代になってから漸く「かのみず」という呼び方が浸透してきた。
 また、昭和二十三年(1948)八月に奥明方村農業協同組合が組織され、昭和二十七年(1952)には食肉部ができて昭和二十八年(1953)に二間手に食肉工場が建設された。
 昭和三十年(1955)及びその翌年にハム・ソーセージの製造講習が行われてこれに参加した若者達の手によって「明方ハム」が生産されるようになった。
 これが生産能力を超越して売れるようになり発売日が特定されたが、その発売日に店頭へ並ぶことは滅多にない状態であったことから「幻のハム」といわれるようになり、後に各地の村興しや町興しなどで「幻の○○」と称されて使用される語源となり現在も多く使用されている。
 昭和四十八年(1973)三月に郡上郡内の明方、口明方、八幡、和良(わら)、西和良、相生(あいおい)及び美並(みなみ)の七協同組合が合併して郡上郡農業協同組合が結成されたことにより「明方ハム」は郡上郡農業協同組合の主力商品になった。
 明方村で独自に開発し販路を拡大してきた明方ハムで村の活性化を図ろうとしていた明方村は、第三セクター方式による会社を設立して新たにハム生産工場を建設することとし、郡上郡農業協同組合に明方ハムの商標返還を申し入れてその内諾を得ていたが、郡会議員の選挙や農業協同組合組合の代表役員の交代などが絡んでこの内諾を反故にされてしまった。

  明方村の村名は「めいほう」と読まれることが多く、既に開設していたスキー場は「めいほうスキー場」と名付けていたこともあり、ハムの生産技術及びその販路は村の宝であるとして、商品名を明宝(めいほう)ハムと命名し生産販売を開始した。
 めいほうスキー場は農閑期の村民の働き場所として村を活性させ、国からふるさと創生費が歳出された時にはこれで温泉を掘り当てて明宝温泉を誕生させるなどして過疎の村を大きく活性化させた。
 昭和四十五年(1970)四月の村名改称から二十二年後の平成四年(1992)四月一日、半世紀の間に二度の村名変更をするというる前例のない状況下で村名も明宝村に変更することが承認された。
 平成十四年(2002)には郡上郡内の八幡町、白鳥町及び大和町の三ヶ町並びに明宝村、高鷲村、美並村及び和良村の四ヶ村を合併して市制とする郡上郡町村合併の協議が進み、平成十六年(2004)三月一日に郡上市制が発足して明宝村内の住所標記は前の標記から「村」の文字のみを除いたものとなり、郡上郡明宝村寒水は郡上市明宝寒水となった。

バナースペース

明宝寒水史

〒501-4302
岐阜県郡上市明宝寒水

TEL 0575-87-0000
FAX 0575-87-0001

inserted by FC2 system