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寒水和田氏先祖之覚

 明方村史史料編下巻一○八四頁に収録されている「六五五 寒水和田氏先祖之覚」は、治郎左衛門正乗の次男で尾会津へ分家した治右衛門の孫(三代目治右衛門)が記した古文書である。
 年数之覚
一、先治右衛門親治郎左衛門、寛永五つちのへ辰年二月、御証文を以納仕、西気良村より寒水村ヲ四拾五石御定米御請申、妻子共に引越し申候而、段々御田地を切り広め、百姓ヲ付、寛永拾一甲戌年十月、則御奉行人浅田忠右衛門殿、新美角兵衛殿、右両人を御願申、寒水村中御検地ヲ入申、四拾五石の外弐拾石五升新地ニ取上ケ申、都合六拾五石五升ニ取立申、それより段々百姓仕付、山川野発(野畑)共ニ田地ニ相応ニ仕付置申所、少も無相違御座候事ニ候、寛延庚午三年迄壱百弐拾三年ニ罷成り候、御検地入候てハ今年迄百拾七年ニ成り候   かのへ午ノ二月日

 年数の覚え(現代仮名遣い)
一、先代の治右衛門の親は治郎左衛門で、寛永五年(1628)二月、定め米(掟米とも言い領主に収めるべき米のこと)四十五石の請け証文により西気良村から寒水村へ、妻子(治左衛門及び次右衛門など)と共に引っ越して来た。 それから寒水村に農民を増やすなどして段々と田地を開拓し、寛永十一年(1634)十月に寒水村の検地を申し出て、検地奉行浅田忠右衛門及び新美角兵衛の両人による検地を受けた。 その結果、定め米四十五石の外に二十石五升の田地を開拓しており合わせて六十五石五升を収めることができた。 引っ越してきてから寛延三年(1750)までで百二十三年(満百二十二年)になり、検地を受けてからは今年までは百十七年(満百十六年)になる。寛延庚午三年(1750)二月日

 先存之覚(断簡)
一.先治右衛門親治郎左衛門、寛永つちのへ辰五年二月、寒水村三拾弐年以前よりあれ申候て、百姓弐人御座候所を、但馬様より両三度めし被出候、則御定米合テ四拾五石ニ役無シニ荷縄付迄御免被成、請所ニ被仰下候ゆへ、西気良村より、辰ノ二月、妻子共ニ引越シ候而、十五、六年之間、何方よりろう人何もとゝめ置、きりひらき、百姓十七、八人ニ仕付申事、それニ付、寛永十一きのへ戌年十月、 則御奉行人浅田忠右衛門殿 新美角兵衛殿、右御両人被仰付、村中検地ヲ入、御定米弐拾石五升取立差上ケ申所明白成り、夫就仕付之百姓方へ云々

 先存之覚(現代仮名遣い)
一.先代の治右衛門の親は治郎左衛門である。 寛永五年(1628)、寒水村は三十二年(満三十一年)以前(慶長二年(1597)から荒れ放題になっていて今は農民が二人しかいなくなっている処を、八幡城主遠藤但馬守慶隆(七十九歳)様は西気良村の治郎左衛門に、定め米四十五石で、他の役はなしとし、検地を免除するという条件で、寒水村住人となって村を再開発することを再三頼まれた。 治郎左衛門は終にこの条件の請書を以てこれを承諾して、寛永五年(1628)二月に、妻子(治左衛門及び次右衛門など)と共に寒水村へ引っ越し、十五、六年の間、寒水の浪人のほか西気良村などの二男や三男など来る者は拒まず番屋に留め置き、切り開いた所はその者に与えることで開墾意欲を高揚させるなどして、農民を十七、八人増やした。 寛永十一年(1634)十月、免除されていた検地を自ら申し出て検地奉行人浅田忠右衛門殿及び新美角兵衛殿による検地を受け、定め米は二十石五升を加えて納めることができることが明らかになった。

 追記
 慶隆は嫡男に先立たれたことから跡を継ぐ者がいなくなり、森直綱の子慶利を養嗣子に迎えて娘と添わせた。
 治郎左衛門の申し出により免除していた検地を行った二年後に慶隆が亡くなった。
 正保三年(1646)には慶利が三十八歳でなくなり、跡を継いだ常友は新田奉行を設置するなどして新田開発に努め、八幡城や城下町の規模拡大などに尽力した。
 慶隆に頼まれて寒水村の再開発に尽力した治郎左衛門を褒賞したのは慶隆の孫常友で、この褒章に対して治郎左衛門は寒水村内あって給仕が疎かになっていた神社(かみやしろ)を白山大明神の境内に合祀した。

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