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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

家頭記(写し)

 寺組家頭記(写)
 (一)明方村史史料編下巻一○九五頁「六五八 寒水村家頭記(写)」
 表紙「家頭記寺組」、裏表紙「大正五年九月五日、和田徳右衛門氏ヨリ借リ受ケ写置クモノ也喜田七五郎 印」
 家頭記  
 一、長暦卯三年八月一日に入山仕ル、開山鎌倉五郎左衛門、第九代目五郎左衛門ノ三男三郎左衛門、第九代目三郎左衛門ノ次男五郎兵衛、第拾壱代目布頭久作ガ三郎左右衛門トナル、三郎左衛門ハ元禄五年ニ寺建立シテ、三郎左衛門ノ次男平八トナル、天保二年に仙三郎トナル、明治ニハ増田教平トナル
 御神
 一、長久元年八月一日、氏神様ニハ天神社ヲ奉納スル、鎌倉五郎左衛門
 白山神社
 一、文正戌元年八月建立 惣氏子中
 一、天正丑五年三月拾五日、始メテ美濃国武藝郡吉田郷気良庄トナル、文禄三年七月五日ニハ小久須見所トナル、寛永二年九月寒水所トナル
 一、文亀酉元年ヨリ文禄二年迄、一百拾四、五年間、川竹原ト相成居シ故、其ノ時和田家ハ気良所ヨリ、文禄弐年ニ領家ヲ買越シトナル、治郎左衛門、タダシ、寒水ト名ノル成リ
 一、寛永拾壱年拾月拾五日、始メテ遠藤内検ヲ打始メ、寒水惣高一百九拾七石六斗六升六合、百姓本戸 拾五戸治郎左衛門外拾四戸
 一、享保拾五年ニハ、金森氏ノ代、百姓本戸弐拾七戸
 一、宝暦拾三年ニハ、青山公トナル、百姓本戸参拾六戸
 一、文政六年ニハ、寺ノ本堂ヲ建立
 一、明治元年ニ明治天皇トナル
  郡上郡寒水村 持主増田教平 印
  明治弐拾六年ニ、和田徳右衛門へ委任ス

 寺組家頭記(写)の検証
 寒水に関する古文書の中で最も古い年号の記述が見えるのは「寺組家頭記」である。
 これは布頭家の増田教平が明治二十六年に北海道へ移住するに先立って檜会津家の和田徳右衛門に書き写させ、更にそれを大正五年に当時の寒水小学校校長の喜田七五郎が書き写したもので、明方村史史料編に収録されている。
 この寺組家頭記では五郎左衛門の寒水入植を長暦卯三年(1039)としているが、これは元号の長禄を長暦と聞き誤って伝承されたようで、正しくは長禄卯三年(1459)のことであろう。
 十四代目に当る仙三郎が跡を継いだのは天保二年(1831)のことなので、長暦三年(1039)から七百九十二年後ということになる。
 これだと一代当りの家督期間が六十年余ということになるが、親子間での家督相続は一代当り三十年前後が限度である。

 文正元年(1466)八月に白山神社を建立したとあるが、当時の農民が祀ったとすれば天神か地神である。
 天神社は後に学問の神様として崇められるようになったが、元は地神に対する天神であっていずれも農耕神として祀られたものである。
 現在の白山神社に境内社として祀られている天神社の勧請について、日本歴史地名大系/岐阜県の地名(平凡社発行)は「摂社の天神宮は鎌辺村常妙寺の開山鎌倉五郎左衛門が長久元年庚辰(1040)に氏神として奉納したという(寺組家頭記)」と載せている。
 寺組家頭記以外で寒水に鎌倉氏が存在したことを確認できるものも存在せず、村史に掲載された寺組家頭記には鎌辺村常妙寺のことを記していない。

 長久の元号になったのは長久元年(1040)十一月十日からのことなので、長久元年八月一日とあるのは長暦四年(1040)八月一日のこととなるが、前述の通り長暦は長禄を誤っていることが明らかなのでで、天神社を勧請したのは長禄四年(1460)八月一日ということになる。
 長禄の元号は長禄四年(1461)十二月二十日で終り、翌日二十一日から寛正に改元された。
 この八月一日という日を選んで記したのは、この日が徳川家康の江戸城入城の日として江戸時代には特別な日であったことから思いついた日付であろうと思われる。

 現存する白山神社の棟札では、文正元年(1466)から百六十一年後の「寛永四年(1627)十一月吉日、奉白山大権現造立所、和田治郎左衛門正乗」と記されたものが最も古い。
 長禄三年(1459)に五郎左衛門が寒水の地へ入植し、その七年後の文正元年(1466)八月に和田治郎左衛門などと共に白山大権現を勧請したということである。
 権現は仏教語であり、白山大権現を白山神社の社号に改めたのは明治新政府の神仏判然令に基づくもので、白山大権現のことを白山神社と記している寺組家頭記は明治の時代半ば頃に記録されたものであることが判るる。
 元号の長禄を長暦と誤って伝えたのは、徳右衛門に書き写させた時の明治二十六年(1893)である可能性が高い。

 初代五郎左衛門が初めて入植した所は現在の白山神社から約五百米程北上した辺りで、五郎左衛門の子三郎左衛門が和田治郎左衛門の寒水村再開墾施策に乗じて修善坊の近くの地を切り開いた。
 寛永十一年(1634)十月の検地では、三郎左衛門の開墾地は屋敷名を含めて布頭と名付け、先祖からの屋敷名を含めた土地を布尻と名付けた。
 屋敷名布頭家は代々三郎左衛門の通称名で家督を継承し、隠居後は久作を名乗ったようである。
 家頭記に「三郎左衛門ハ元禄五年ニ寺建立シテ」という件があるが、元禄五年(1692)は文政五年(1822)の誤りで、布頭の久作は修善坊の本堂が建立される時に敷地の一部を譲り渡したことの古文書に文政五年(1822)とある。
 当家の十二代目とされる三郎左衛門(法名釋教因)が寛政十二年(1801)十二月十五日に亡くなり、その二男平八が四十一歳で十三代目三郎左衛門となった。
 平八は若くして在家得度し釋氏聞説を号しており、家督相続後は家長のまま家業は十歳年下の弟浅次郎駒吉に行わせた。
 文政三年(1820)の還暦後に隠居して久作を名乗り、文政五年(1822)の修善坊本堂の建立に尽力したということであろう。
 天保二年(1831)三月十四日に七十一歳で亡くなると、仙三郎(幼名梅干之助)が三十歳で跡を継いで十四代目三郎左衛門となった。
 明治三年(1870)には仙三郎の子教平が十五代目三郎左衛門を継いだが、明治五年(1872)に戸籍法の制定により三郎左衛門の通称名は使用することができなくなって氏を「増田」とした。
 教平は明治二十六年(1893)に、妹増田くらと婿の由松夫妻に田畑及び山林等の一部を残し、布頭増田家の家屋敷や田畑及び山林等の大部を熱田保家の故久平の長子末松に売り渡して北海道へ移住したことにより、寒水の布頭増田家は十五代で絶えた。

 当家の墓地には「南無阿弥陀仏 享保八癸卯年 開山 二十四日」と刻された墓石があり、そこには「釋氏聞説 釋尼妙念 天保四巳四月十六日」と刻された墓石もある。
  「開山」とは墓地を設けたということであり、七代目とされる五郎左衛門(文禄元年(1592)生れ)が設けたということになる。
 平八は天保二年(1831)三月十四日に亡くなっていることから、天保四年(1833)四月十六日に亡くなったのは平八の妻(釋尼妙念)である。

 浄土真宗の法名は「釋○○」であるが、生前に得度して受けた法名があっても、死後は新たに法名を受けるのが通常である。
 ただし、女性の法名は「釋尼○○」とし「尼」の文字は右上方に小さく記される場合が多い。
 「法名釋氏○○」と記されているのは、男性の法名で「氏」の文字を小さく記すことはなく、寺院の僧侶ではない者が生前に受けていた法名を死後もそのまま使用する場合に記されることがある。

 布頭家十三代目とされる三郎左衛門平八事釋聞説は、家業を弟の浅次郎駒吉(1771~没年不詳)に任せていた。
 文政五年(1822)の本光寺本堂の再建に当り、久作(十一代目とされる三郎左衛門久作から当家のことを久作とも呼ぶようになった)の屋敷前の畑の一角壱畝歩(九十九平方米)を本堂屋敷として売り渡している。
 このことは、明方村史史料編上巻一四六ページに掲載されている。

 本堂屋敷証文之事(写し)
其御寺本堂再建ニ付屋鋪之儀依御望久作屋敷之内壱畝歩礼金為三両差上申候処実正二御座候右屋敷之儀ニ付我等子孫ニ至迄故障之儀無御座候若於以後違乱申者御座候ハゝ加印之者共急度埒明可申候為後日屋敷証文一札仍而如件文政五午年四月
                     寒水村売主 駒吉㊞(布頭家浅次郎の弟)
                     地主    聞説㊞(布頭家浅次郎の兄)
                     同村世話人 儀兵衛㊞
                     同村同断  忠右衛門㊞(天竺家)
                     同村百姓代 四郎兵衛㊞(桂本家)
                     同村組頭  彦右衛門㊞(中島家)
                     同村庄屋  忠右衛門㊞(天竺家)
   当村本光寺様

 布頭の家屋敷の辺りは初代三郎左衛門から代々切り開いたりして布頭家のものとなり、明治の時代になってからの字になった。
 明治二十六年(1893)に布頭家十五代目の増田教平が北海道へ移住することを決意した。
 教平には父仙三郎(1802~1870)の後妻の子で、くら(1868~1916)という妹がおり、岩会津家の由松(1864~1945)を婿に迎えて、布頭家の屋敷脇にあった小屋で所帯を持っていた。
 その由松・くら夫妻に布頭家の屋敷の上ラの田畑を分与し、借財の精算や移住経費の捻出などのため布頭家の家屋敷及びその周辺の田畑の大部を、本光寺から分家した熱田保家初代の長子に売却した。
 
 増田くら・由松夫妻は分与された土地の寒水恩地家の北側に住まいを移していたが、その長男為平が昭和二十年(1945)に跡を継ぐと、布頭家の上ラに家屋敷を移した。
  昭和四十八年(1973)五月二十八日に行年七十二歳で為平が亡くなり、十八代目となる跡を継いだ厳氏は生涯独身を通し、平成時代の終わりに高齢のため寒水の地を離れた。

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