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明宝寒水史は校正が不十分です。当サイト「改訂版明宝寒水史」をご覧ください。
改訂版明宝寒水史
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0575-87-0000
〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水
明宝気良千葉家の囲炉裏火
転写:
<いいね岐阜>800年燃え続ける千葉家のいろり火、絶やさない(2020年10月6日)
八百年にわたり燃え続けてきた郡上市明宝気良の「千葉家のいろり火」を絶やすまいと、地元の住民有志が分火による保存活動を始めた。
千葉家の火を自宅や店舗の灯油ランプなどに移してともし、地域の宝を新たな形で継承していく。
(山本真士)
千葉家は下総国(千葉県)出身で桓武平氏の流れをくむ旧家。
いろり火は、鎌倉時代の一二二一年に一族が気良に移り住んだ頃、火打ち石でつけられたとされる。
歴代の当主は「火を絶やすな」という家訓を大切にして、火種を一度も消すことなく守ってきた。
明宝気良の千葉家の先祖についての伝承誤り
上記の記事は、Webサイトの「800年燃え続ける千葉家のいろり火」の記事の前段部分を転写したものである。
「先祖は鎌倉時代の一二二一年に一族が気良に移り住んだ」とあるがこれは史実と異なり、全く信憑性のないものである。
鎌倉時代の承久の乱(一二二一)後の論功行賞により下総国東庄の東胤行は、室町幕府から美濃国郡上郡の山田庄(現在の郡上市大和町の一部)の新補地頭に任ぜられて美濃東氏の祖となった。
東氏は三浦氏の支族であり、その三浦氏は千葉氏の支族であって、山田庄へ入った東氏の臣下に千葉氏は存在せず、美濃国に千葉氏が存在したことを示す歴史史料はない。
明宝気良に明建社が存在しないことからも、当地に下総国の千葉氏流の氏族が存在しなかったことは明らかである。
明宝気良は荘園時代には気良庄内であり、美濃東氏が気良庄へ入るようになったのは美濃守護土岐頼康から気良庄に領地を与えられていた美濃東氏八代目の益之からである。
その前の気良には土岐国氏の子国成が本拠を構えて気良氏を名乗ったことから国氏も気良氏とする資料もある。
国成の跡を継いだ頼数(土岐光行の五代後胤)は隣村寒水側の山上に砦を設けて寒水川右岸側に入植した山田庄の東氏一族の動向を監視していた。
この頼数が美濃守護であった土岐頼益(土岐光行の五代後胤)に東氏が気良庄内へ入り込んでいることや篠脇城主が病床にあることを知らせたのか、応永十六年(一四〇九)に土岐頼益が郡上へ侵攻して来て中ノ保に陣を置いた。
八幡村に舘を置いていた東胤綱は土岐氏の陣を訪れて頼益に謁し、気良庄の領地は元服の時に烏帽子親となった頼益の伯父頼康から賜ったものであることや向かいの山肌の要害は農民が設けてくれたものであることの経緯などを話し、領民を苦しめることになる戦いは避けたいことを伝えた。
頼益は大いに喜んで吉田川流域及び和良村を安堵するとともに自分の「益」の一字を与えて「益之」と名乗らせ、その後の気良氏は転封となったがその転封先など気良氏のことは歴史史料に現れなくなった。
名字は農民にもあったが江戸時代にはこれを公式に名乗ったり文書に記したりすることが許されていなかった。
これにより殆どの農民の名字は忘れ去られたり伝承が途切れたりしたが、検地時に名字を屋敷名にした農民もあった。
明治時代になって戸籍法の制定により氏名を届出ることになったが、文字の読み書きをできない者の多くは旦那寺の住職や戸長に委ねた。
委ねられた戸長などは屋敷のある地形的見地から氏を決めたり、公家などの氏を当てたりした者もいたという。
明宝寒水では寒水領家の分家の後裔が戸長を勤めていた時であったことから、戸長の先祖が旧西気良村から入村させた家は寒水領家の一族であるとして、委ねられた家の氏はすべて和田にしたという。
神仏判然例が発せられて神社調査が行われた時に「縁起」の項目があり、これの創作が行われたことを機に俄かに先祖や名所旧跡などの縁起を創作することが流行るようになった。
学校制度ができて文字の読み書きができるようになるとこの風潮は益々盛んになって昭和の時代に至っても続いていた。
しかし、当時の乏しい歴史資料を基にして創作されたことから誤った伝承や誇張した伝承が多い。
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