東氏の郡上郡入郡

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東氏の郡上郡入郡

 桓武天皇平氏流の曾孫高望王の子に國香、良將、良文、良茂などの兄弟があり、國香の孫である平維衡は伊勢国に下向して西国平氏となりその維衡の孫正盛の系統を平家と称し、この平家の残党のことを平家の落人と称する。
 良將の子には関東八州を占拠しようとして謀反を起した将門やその兄弟があり、将門は天慶三年(940)二月十四日に三十八歳で討死し、その兄弟も厳しい残党狩りに遭って討たれたり遁走し行方不明になったりして滅亡した。
 良文流からは坂東(東国)平氏の三浦氏や千葉氏が派生し、源頼朝が挙兵した時には千葉常胤の六男胤頼(1155〜1228)が「直ちに挙兵して頼朝に協力すべき」と進言したことから六人の子と共に頼朝に従属した。
 後に下総国守護職に任ぜられた常胤は六人の子にそれぞれ一郷の領地を分与し、頼朝の挙兵時に六人の子の中で一番の働きをした胤頼にはその功労の恩賞として下総国の三十三郷を有する東庄を与えた。
 東庄内の飯田郷に館を置いた胤頼は庄内にある東大社の神官東氏に「東(とう)」の名字の譲渡を申し入れ、代りの名字として館のある郷の「飯田」を名乗らせることにしてこれを了承され、東氏の祖となった。
 良文流の三浦氏は八代で絶えたが千葉氏の氏族として派生した東氏は栄えて現在に続いている。
 良茂流からは三浦氏や鎌倉氏が派生し、三浦氏の氏族として和田氏が派生した。
 鎌倉氏の氏族に派生した梶原氏の祖梶原平三景時の子が名馬摺墨で宇治川の先陣争いをしたことで名を馳せた梶原源太景季である。
 治承四年(1180)八月十七日に挙兵した源頼朝が二十三日に石橋山の戦いで大敗を喫した時、平家方で参戦していた梶原平三景時が頼朝の命を救い、九月に再度挙兵した頼朝が十月六日に鎌倉へ入り、後に関東を制圧すると景時は頼朝に臣従するようになった。
 正治元年(1199)正月十三日に頼朝が死去した後の景時は状況が一変し、鎌倉から追放されることになって所領の相模国一ノ宮へ退き、上洛を企ててその途中に駿河国清見関で在郷武将と争い梶原氏一族は滅亡した。
 源頼朝は文治元年(1185)に源義経及び源行家が京の都から逃亡した時、この二人を捕らえることを大義名分とする大江廣元の議を採用し法皇に奉請して認められ、諸国に謀反人が出ることを防ぐ(西国平氏の残党狩り”平家狩り”を行う名目)ため御家人を守護地頭として全国に配置した。
 地頭は幕府が荘園や国衙領を管理支配するために設置した職で守護とともに設置され、平氏政権期以前から存在した。
 承久の乱以前からの地頭を本補地頭と称し、承久の乱後に任じられた地頭を新補地頭と称する。
 承久三年(1221)の承久の乱で勝利した鎌倉幕府は、西国に所在した多くの朝廷の所領を没収し、ここへ新たに御家人を新補地頭として配置した。
 良文流から派生した東氏の三代目胤行(1194〜1273)はこの承久の乱における宇治川の合戦で郎党を率いて活躍し、その恩賞として幕府から郡上郡山田庄の新補地頭に任じられて美濃東氏の祖となった。
 一説に、生れて間もない行氏であると伝えられ、その時期は承久の乱の戦後処理が始められた承久三年(1221)とするものや、行氏が正安二年(1300)十月二日に七十八歳で亡くなったという説から貞応二年(1223)とするもの又は七十三歳で亡くなったという説から安貞二年(1228)とするものなど諸説あるが、承久の乱後の論功行賞が行われたのは嘉禄元年(1225)以後のことである。
 胤行は寛元元年(1243)に在家法体となって釋素暹を号していることや、宝治二年(1248)九月には幕府の祐筆に任じられており、胤行自身が郡上郡へ来郡したことは一度もなく、四男義行が名代として郎党を引き連れ入郡し剣村(現郡上市大和町剣)に阿千葉城を築いて本拠とした。
 胤行は京の都に居住して、弘長三年(1263)七月二十六日に七十歳で亡くなったとも、文永十年(1273)十月三日に八十歳で亡くなったともされる。
 
 東氏の入郡により郡内の生活の様子は大きく変って農業技術を向上させ、農耕意欲が旺盛な人々は開田地を求めて栗巣川や古道川の上流域への入植を進め、正和元年(1312)頃には美濃東氏三代目(東氏五代目)の氏村が阿千葉城の南東に篠脇城を築いて本拠を移した。
 美濃東氏一族の里人は東方の山を明山(あけのやま)や明保(あけのほう)と称し、開田地を求めて東方の山を越え四方を山に囲まれた寒水の地に入って現在の四組及び五組の右岸側を適地として入植したが、寒水川を気良庄との境と見做して左岸側へは入らなかったことが窺える。
 また、寒水後は四方を山で囲まれていたことから、山田荘及び気良荘のいずれの領家にも認知されていなかったということも窺い知ることができる。

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