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東氏数と常縁の兄弟

 氏数は胤綱の長嫡(1494生れ)で、師氏の養嗣子である
 三代篠脇城主師氏の子である胤綱は、幼い頃に養子に出されて養父の下で元服し名を胤綱と改めた。
 胤綱が妻を娶り長嫡が生まれて間もない頃に、隠居することを考えていた師氏は嗣子泰行に先立たれてしまった。
 師氏は胤綱に跡を継がせようとしたが、胤綱は父よりも少し歳上の養父の下を去ることはできないとし、養父の承諾を得て代わりに幼い長嫡を父の養嗣子にすることにした。
 京に在住していた胤綱は師氏の名代として朝廷に仕えていたが、既に老い耄(ぼ)れの身である師氏の隠居に備えて自領の小駄良川河口に近い所に館を設け移住する準備を進めていた矢先に、養父が亡くなり、胤綱は自領の館へ移住した。
 応永九年(1402)、六十歳になった師氏は、九歳の養嗣子を元服させて氏数と名乗らせ、家督を譲って隠居した。
 四代篠脇城主となった氏数はまだ年少であり、胤綱が氏数を後見すると共に引き続き美濃東氏の宗家当主の名代を勤めた。

 胤綱の八番目の子が五郎常縁(1405生れ)で、氏数の異母弟である。
 応永十六年(1409)の晩秋、氏数や常縁の父胤綱は名を益之と改めた。
 永享二年(1430)、益之が隠居して素明を号し、その家督は常縁が継いだ。

 東氏は下総国千葉氏から出自した氏族で、嘉禄三年(1228)頃に三代胤行が室町幕府から美濃国郡上郡山田庄(現郡上市大和町地内)を与えられ、東氏宗家の本拠を下総国東庄(現千葉県香取郡東庄町・とうのしょうまち)から郡上郡内の山田庄へ移した。
 旧領のあった下総国で千葉氏の内訌などが続いており、康正元年(1455)、美濃国の東氏宗家当主氏数は、室町幕府八代将軍足利義政から千葉氏の内訌鎮圧を命じられた。
 しかし、氏数は元来が病弱であったことから下総国まで出向することは無理であり、弟の常縁が名代となり篠脇城主配下の一族を引き連れて下総国へ出向し、その後十年以上も帰国できないこととなった。

 美濃国では元中七年/明徳元年(1390)以後、急速に美濃守護が弱体化し、守護代冨島氏を殺害した斎藤利明(1389〜1450・62・号宗円)が守護代となって勢力を拡大し、実質的には守護と守護代の立場は逆転状態になって行った。
 美濃守護代は、宗円の子利永1409〜1460・56)、その子利藤(1430頃の生れ)と続き、利藤の叔父持是院法印妙椿(1411〜1480・70・諱不明)は、守護代だったとか、利藤を後見したとか、実は利明の子だったとかするものがあるがいずれも誤りで、守護代になったことはなく、利永の次弟である。

 応仁二年(1468)九月、僅かの手勢と共に篠脇城下の館で日々を送っていた四代篠脇城主は妙椿に山田庄を奪われた。
 美濃国及びその周辺国を支配することを目論んでいたと思われる妙椿は多くの荘園を横領しているが、荘園主を敗死させたり自決させたりした様子は窺えないことから相手方の規模に応じた軍勢を率いて取り囲み戦うことなく横領するだけの勢力を持っていたということであろう。
 氏数は気良庄へ逃げたとするものがあるが、気良庄には弟常縁が父から請け継いだ自領及び館があったので、氏数は逃げたのではなく一族でそこへ移住したのと同然である。

 康正元年(1455)に下総国へ遠征してから十三年目の応仁二年(1468)に手薄のままとなっていた篠脇城を兄が奪われたことを知った常縁は、和歌を通じた知り合いである妙椿にその無念な心の内を詠んだ和歌を送った。
 これに心打たれた妙椿は、浜春利を通じて常縁に更に十首の和歌を詠んでくれれば城を返すことを伝えてきた。
 妙椿に奪れた兄氏数の居城篠脇城を常縁が和歌を以て返還して貰ったことは有名なこととして現在に伝えられている。

 常縁は篠脇城下で飯尾宗祇に古今伝授を行った事でも有名であるが、その城下とは現在の大和町内のことではなく八幡町内でのことである。
 常縁が篠脇城下で連歌師飯尾宗祇へ切り紙による古今和歌伝授を行った事も有名である この古今伝授は斎藤妙椿から篠脇城を返還された二年後の、文明三年(1471)正月二十八日から同年四月八日まで常縁が出向中の遠江国三島で行われた。
 文明三年(1471)五月八日に篠脇城主氏数が亡くなり、その翌六月十二日から七月二十五日までは常縁の館で二度目の伝授が行われた。

 益之もその子常縁も篠脇城主になったことはなく、益之から継承した家督は常縁から嫡男頼数(後に縁数と改めた)が継承し八幡村の館に居住した。
 この常縁の館で行われた古今伝授に際し、飯尾宗祇は常縁の館に近い湧水がある所に草庵を組んで居住し、此処から常縁の館へ通った。
 伝授を受け終えてこの地を去る時に宗祇の草庵まで見送りに来た常縁と湧水の脇で連歌を詠んだという。
 そして現在は、宗祇が草庵を組んだ所の湧水のことを「宗祇水」として郡上市八幡町の名勝地として有名な地となっている。
 しかし、この宗祇水がある所までが「篠脇城下」と称されていたことにには地元でも未だ気付いていないようである。

 常縁及びその父益之は共に篠脇城主として名を連ねていたという誤った伝承があり、これにより常縁は大和町内にあった篠脇城主の館で宗祇への古今伝授を行ったされている。
 益之は他家へ養子に行った身であり、気良庄に自領があってそこに館を設けていたことから篠脇城主にはならず、その跡は常縁から常縁の長嫡縁数の次弟常和へと継承された。
 常縁の跡を常和が継いだのは、常縁の長嫡縁数が下総国東庄の東家の跡を継ぐことになったためである。
 依って、益之の系統からは実父師氏の養嗣子として出した氏数以外で篠脇城主になった者はいない。


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