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明宝寒水史は校正が不十分です。当サイト「改訂版明宝寒水史」をご覧ください。

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宝暦義民由蔵の墓

 平成十七年(2005)九月に増田巌氏が、旧寒水歩岐分家の墓地跡に倒してあった古い墓標を起こし、その脇に「法名釈応慶 宝暦八年十二月二十五日」と刻した新しい石柱を立てると共に宝暦義民由蔵の遺徳を偲んだ歌碑を建立して宝暦義民由蔵の墓とした。

 同月九日に明宝寒水へ行っていてこの事を知った私は早速現地を訪ねて拝見したが、歌碑にはある人の名が刻されており違法行為の可能性があることを危惧した。
 宝暦義民の墓とされる墓標は「法名釈正慶 慶安庚寅十二月十五日」と私は読み取り、帰宅後に私の持っている資料と照合してみると当家の初代吉蔵の頃に該当することを確認した。
 寒水歩岐分家は隣村気良村からの入植であることから旦那寺は真宗本願寺派の光明寺である。
 真宗の墓地を開山した所には通常、正面に六字名号、側面又は裏面に開山年月日及び開山者の名をを刻した墓標と共に初代の墓標を建立するか、初代の墓標を建立しただけのものが多々あり、これをどの地方にもある例である。

 寒水歩岐分家の墓跡へ繋がる道路の分岐点近くの寒水街道に宝暦義民由蔵の墓跡があることの案内板が設けられたが、宝暦義民由蔵の法名は釋見浄で往生日は宝暦八戊寅年十二月二十六日であり、私が読み取ったのは法名釈正慶で往生日は慶安三年庚寅年十二月十五日であることから案内板の設置は明らかに誤りである。

 寒水村歩岐分家ができたのは、寛永年間の初め頃に和田治郎左衛門正乗に誘われて西気良村から入植した吉蔵が寒水村初代である。
 宝暦義民の由蔵はその六代目で、享保五年(1720)に寒水村の白山神社東方の山裾にある屋敷名歩岐分家で生れた。
 死罪になる前の家族は、父徳助、母及び身重の妻の四人であった。
 宝暦五年(1755)八月十二日に農民七十余人が集まった帳締谷の連判状の中に由蔵の名があり、当初から立者の先頭に立って活動していたことが窺える。
 旧歩岐分家の戸主は代々吉蔵の名で家督を継承され、由蔵の文字が当てられている代もあり、隠居後が利右衛門を名乗ったようである。
 宝暦八年(1759)十二月二十六日に由蔵が三十九歳で打ち首になった事により闕所(財産没収刑)となって由蔵の家屋敷や野畑、田地は基より、茶碗、箸に至るまで幕府に没収されることになった。
 しかし、その扱いは領主に一任されていたことから小物を回収されることはなく、家屋敷や田畑などの農業経営に必要な主要財産は被相続人に継承されたことから、寒水歩岐分家の家屋敷などは由蔵の父利右衛門徳助が継承した。
 由蔵が獄門になった年に十四歳になる娘が一人がおり、由蔵の妻はまだ若かったことから徳助は嫁に後添えとなる婿を迎えて中継ぎをさせた。
 寒水歩岐分家の屋敷を現在の寒水油屋家が屋敷となっている所へ移築したのは、この徳助及び中継ぎに迎えた婿と思われる。

 平成二十三年(2011)九月八日に寒水歩岐分家の墓跡を訪れて驚いた。
 宝暦義民由蔵の墓というのは誤りだという私の指摘に対応したのか、往生年が「宝暦八年寅」とはっきり読めるように修正されていた。
 下図の、①は平成十七年(2005)九月に私が撮影した墓標で、②はその刻字を薄墨色の筆でなぞったもの、③は「正」が「応」に修正され、「慶安庚寅」が「宝暦八年寅」に修正されたものである。


 下図は、左側が平成十七年(2005)九月九日に撮影したもの、右側が平成二十三年(2011)九月八日に撮影したものである。

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