旧鎌倉街道

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明宝寒水史は校正が不十分です。当サイト「改訂版明宝寒水史」をご覧ください。

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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

旧鎌倉街道

 鎌倉街道は諸国から鎌倉に通ずる古い道ということで、北陸からは檜峠や油坂峠を経て現白鳥町に入り、白鳥町六ノ里の県道八十二号を栃洞から大洞峠を経て現明宝寒水(かのみず)に入る。


 右の道祖神(釈迦如来像)には、白鳥町大島 佐藤安太郎(元寒水油屋五代目)と白鳥町那留 細川安太郎(元寒水茶場)の名がある。


 寒水川に架かる見座橋を渡り伊妙峠に向かい、峠には明治十六年(一八八三)八月/清水喜左衛門建立の道祖神があった。


現明宝気良の野口に入り、川岸の最も低い野口橋(昭和五十五年十一月竣工)を渡る。




 途中の宮原から現明宝奥住の奥長尾へ通じる峠を越えたとされ、地元では宮原から奥長尾に繋がった宮原林道及び明宝気良の布平からの林道が交差した所をを三ツ石峠(明宝村史には「三ツ谷峠」とある)と呼ぶ人があるらしいが知らない人が多く、国土地理院の地図及びその前身である大日本帝國陸地測量部の地図にも載っていない。




 宮原から奥長尾まで自動車で通れるように繋がったのは平成十三年(二〇〇一)以後のことで、これに明宝気良の布平からの林道が繋がったのはさらに後のことであるが、平成二十九年(二〇一七)までには繋がっている。
 明方村史(一九八三年三月発行)の編纂が行われるようになって、伊妙峠からの旧鎌倉街道が何処で明宝奥住奥長尾と繋がったのかを調査している時に、宮原林道へ繋がる道路沿いの宮原二〇三三番地二(鈴木家)の南隣から二〇五七番地(佐藤家)を経て二〇三三番地二(千葉家)へ通じる里道があり、これを旧鎌倉街道跡と見誤って明宝村史上巻(一九九三年三月発行)三ツ谷峠」にたことに起因すると思われる。




 この里道は宮原林道へ繋がる車道が開通したことにより、佐藤家及び千葉家までの車道もできてからは利用されなくなった道跡である。
 明宝村史の記事が広く伝わり宮原から奥長尾へ繋がる林道を旧鎌倉街道跡とされるようになってしまった。
 旧鎌倉街道が通っていた峠にはそれぞれ峠名があり、この峠名は明治時代の大日本帝國陸地測量部で作成された地図に記載され、現在の国土地理院の地図に伝わっているが三ツ谷峠の記載はない。
 実は、旧鎌倉街道は明宝気良の田口から気良峠を経て奥長尾へ入る経路で、この街道跡は途中まで田口林道が造成されてその面影はなくなり、その先は気良峠を越えて奥長尾までが旧街道のまま残っていた。


 宮原林道ができたことにより田口林道はフォンス扉により閉鎖(下図左)され、平成二十年代頃に明宝気良の布平からの林道が造成されて宮原林道に繋がった時、気良峠(下図右)は山頂部が削り取られてその位置解らなくなった。
 令和二年十月現在、気良峠跡から奥長尾側への林道の造成が進みつつある。


 気良街道の田口から気良峠へ向かう分岐点には目印にしたと思われる杉の木があって、その根元には気良街道に向かって文化三丙寅年六月日建立の道祖神(馬頭観音)がある。
 杉の木は郡上市指定天然記念物(二〇〇〇年九月二十一日指定)になっており、指定時の樹高二十五米、幹回り七米であった。


 此処から気良峠までの高低差は約二百八十米であるが、宮原の十字路から三ツ谷峠とされている林道の交差路までの高低差は約三百二十米あり、気良街道から奥長尾側の街道脇にあるにある蓮浄寺までの距離も田口からの方が遥かに短い。

 気良峠と小川峠など
 明治二十三年の地図では、畑佐村と小川村を結ぶ里道が畑佐鉱山のある山の東側を通っており、小川峠の標記はない。


 明治四十四年の地図には、畑佐村と小川村を結ぶ里道(現在の赤路線)が載っており小川峠の標記がある。
 気良村田口及び奥住村奥長尾を結ぶ里道は載っているが、気良峠の標記はない。
 奥住村鎌辺及び小川村日出雲を結ぶ里道は載っているが、峠名の標記はなく、現在の地図には繋がっている認定外道路(旧里道)は載っていない。


 旧鎌辺村~旧小川村を結ぶ里道
 旧奥長尾村から吉田川を渡り、旧漆原村を経て旧鎌辺村から旧小川村日出雲へ入り日出雲川沿いに同村岩切へ通じる里道があった。
 明宝奥住の白山神社から約八百米北上した所で、標高差は約四百十米ある.
 しかしこの道は、南東へ進むのではなく北東へ進んでいることや、標高千百八十米辺りを越えてから更に千二百八十七.六米の山上を目指して再度千百八十米辺りを越えていること、その標高差は約五百八十米あることなど不自然である。

 旧漆原村~旧小川村を結ぶ里道(推測経路)
 明宝奥住の白山神社から約三百米程北上した所に明宝小川の上切へ通じていた峠道(標高約千五十米で標高差は約四百九十米)への入り口であったことの表示柱が設置されているる。
 この道は明治時代の里道には含まれていないので、里人が旧漆原村と旧小川村を結ぶ捷径として利用ていたたものと思われる(下図は推定経路)。
 なお、この道及び日出雲へ至る里道は、現在の明宝奥住小保木辺りから途中までの林道とは路線が全く異なる。

 旧畑佐村~旧小川村を結ぶ里道
 明治時代初め頃までの畑佐村から小川村の道谷川上流域に入った経路は後の小川峠ではなく、畑佐鉱山の道を利用して畑佐鉱山の山頂及びその東隣の山頂との間(標高一〇八十数米)であった。
 明治十年(一八七七)以後に、畑佐鉱山のある山頂の東側よりも標高の低い現在に伝わる小川峠を経由するようになったものと思われので、旧鎌倉街道でないことは明らかである(下図は、明治時代中期以後の畑佐から小川峠を経て小川への旧道概略図)。
 現在の明宝畑佐一四八番地三(原家)前辺りから明宝保育園の裏を通り、畑佐鉱山跡の東側尾根西側斜面にある糀平山の上キャンプ場の西側まで伸びている道路は峠の入り口及びその一部が拡張されたものと思われる。


 現在の明宝畑佐には吉田川へ合流する下谷川河口の山上に畑佐氏の砦がありその麓に舘があって、飛騨の三木氏(後の姉小路氏)が度々この地を襲撃した。
               

  元禄元年(一六八八)に畑佐村(現明宝畑佐地内)で庄次郎という山師が銅鉱山を発見して採鉱が始まり、その後何度か休鉱や採鉱が繰り返されて、青山氏の時代にも採鉱された。
 明治十年に何度目かの採鉱がされるようになった畑佐鉱山は、明治四十年(一九六五)が最も盛況であったとされ、採鉱高は銀鉱二十四万八千六百十六貫、製出銀七百十二貫余、銅鉱四万九千七百六十四貫、製出銅十一万斤余となっている(郡上郡史、八幡町史)。


 大正年間まで採掘され、昭和の三十年代には禿山で鉱山跡であることがよく判った。
 昭和四十五年(一九七〇)、当時の明方(みょうがた)村は郡上保健所の成人保健対策のモデル地区として住民検診時循環器検診も実施されていた。
 この検診には地元岐阜大学公衆衛生学教室も協力機関となっており、大学では研究の一環として尿中の鉛、カドミウムなどの測定をしていた。
 明方村住民についてのカドミウム値にやや高値を示すものがあり、畑佐地域に地域特性がみられたことが発端となった。
 この時期は富山県におけるイタイイタイ病が問題となっている時期で、カドミウム汚染が疑われ過去の状況調査、環境調査、健康調査などが実施された。
 畑佐地区住民について日本公衆衛生協会の研究班報告に基づいて検診が実施された。
 昭和四十五年(一九七〇)十一月、男八十二名、女八十九名にカドミウム汚染を反映する尿中カドミウム値が見られたが大きな健康被害は出なかった。
 畑佐地区に製錬時の溶融によって金属から分離した鉱石母岩の鉱物成分などを含む鉱滓(こうさい)がむき出しで山積されていたことが汚染源とみられたことから、周辺の土壌、産出米についてカドミウムの測定が実施され、水田の乾燥土壌や産出米でカドミウム汚染が確認された。
 これにより、むき出しで山積している鉱滓の封じ込め工事及び田畑の土壌交換が行われて、昭和四十八年(一九七三)に終息した。
 このほか数年にわたり住民の健康調査が実施され、この事例はマスコミにも大きく取り上げられたことから全国の廃鉱の調査へと広がった。
 奥美濃よもやま話の第十六話に「畑佐鉱山の主一」、第十七話に「畑佐鉱山の主二」、第十八話に「畑佐鉱山の主三」がある。

 明宝小川では地元の公民館幹事(山口氏など)が主体となって旧小川峠までの道を「馬方の道」として整備し旧小川峠の位置を明確にした。
 此処にはお助け小屋があったという(山口氏談)。
 その入口(分岐点)の案内標識に「この先1.2km」の表示があり、途中までは車で行けるがその先は徒歩で二十分くらいはかかるという。


 明宝小川からは馬瀬峠~小坂~安房峠~信州といった経路を辿って鎌倉に向かう間道であったと明宝村史は記している。


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