明方筋を領した東益之

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明方筋を領した東益之

 八幡町から明方筋にかけて吉田川流域を大きく変貌させたのは東氏八代目益之である。
 建仁寺の二百十七世住職となった正宗龍統が「故左金吾兼野州太守平公墳記(続群書類従第八収録)」に父益之のことを詳しく記している。
 「故左金吾兼野州太守」の左金吾とは衛門府の長である左衛門督の官職名の唐名で、野州太守とは下野守のことである。

 故左金吾兼野州太守平公墳記
先公諱益之京人姓平。其先千葉之族有諱胤頼者、自注大千葉介第六子六頭之一也、食采下總州東庄因氏焉。至公八世、曾祖考氏村、生而恵朗、長而凝静、檀美和歌之道、辱後醍醐皇帝寵命、於武者所宮中地名献歌章而名聞四方矣。祖考常顕、野州刺史、武烈而威暗?、叱綜ァ河水為之起湧、亦善歌詞。考師氏、總州刺史、傾而長鬚髯簾以人物稱、其歌詞之工。与祖及考同系素胱無子養公為子。胱父貞常、貞常父時常、時常行氏之長嫡、行氏時常の誤り氏村之兄也。公自幼有異質、胱訓之曰、以心副心、公終身以茲言銘、佩其冠以源善忠土岐頼康為他姓父自注倭之冠礼也、割与濃之坪、云々」(故左金吾兼野州太守平公墳記抜粋)。

  益之は東氏八代目で、その曽祖父は氏村、祖父は常顕、父は師氏である。
 益之が養子になった同族の養父素胱(原書では「月」編ではなく「舟」編であるが、当サイトでは「?」になるので「胱」を代字にする)の父は貞常で、貞常は時常の子、時常は行氏の長嫡で、「行氏氏村之兄也」としている。
 益之の曾祖父氏村なので「行氏氏村之兄也」ということはあり得ない。
 正宗龍統は「時常行氏之長嫡、氏村之兄也」とすべき処を「氏村」の前にも「行氏」を書いてしまっのである。
 この「行氏氏村之兄也」の書き間違え部分を捉えらえて「行氏の子氏村は実は胤行の子也」と付箋を付けた者がいたことからか、後世の文献でそのまま載せているものが多い。
 氏村が亡くなったのは胤行が亡くなってから百四年以上後の事である。

 系譜にしてみると次のようになる。


 幼名某(後の益之)は幼少の頃に同族の京に在住する素胱の養子となり、十二歳になった嘉慶元年(1387)の早春に土岐氏六代目で美濃守護三代目の土岐頼康を烏帽子親として元服し、この時胤綱を名乗り頼康から気良庄内の濃之坪を所領として与えられた。
 濃之坪とは即ち濃州の一地域の意味と思われるが、山田庄に近い気良庄内の小駄良川流域のことと推測されることから、河口付近(現在の郡上市八幡町中坪)の当時の地名だった可能性もある。
 胤綱は明徳元年(1392)に京で十八歳の時に土岐氏一族の源氏の娘を娶り、明徳三年(1394)一月十五日に長嫡が生まれた。
 その後の間もない応永年間(1394/02/09〜1428/01/25)の初め頃に、三代篠脇城主で美濃東氏宗家当主師氏の長嫡泰村が無子のまま亡くなった。
 泰村の次弟江西龍派は既に出家していて家督を継ぐ者がいなくなったことから、師氏は養子に出した先で元服して名を改めた胤綱を宗家へ戻らせて跡継ぎにしようとした。
 養父素胱は胤綱が宗家の当主になることを密かに喜んだが、胤綱は高齢の養父を残して本家へ戻ることはできないとして、生後間もない長嫡を実父の養嗣子とすることで養父の承諾を得た。
 
 養父素胱が亡くなり、東氏の宗家当主で三代篠脇城主の実父師氏も五十歳代の老いぼれとなり、公は師氏の名代となって朝廷に仕えた。
 師氏は六十歳で隠居したいということから胤綱は自領の小駄良川河口付近に館を設けることにして、郡上郡へ移住する準備を始めた。
 応永九年(1402)、六十歳の師氏は九歳の養嗣子を元服させて、師氏の名の一字を以て氏数と名を改めさせ、胤綱に後見させるとともに引き続き名代を勤めさせることで家督を譲り隠居した。
 胤綱は後に左衛門督の官位を与えられ、更に下野守にも任ぜられることとなる。

 師氏が隠居した同年(1402)の初秋、台風により小駄良川及び吉田川で洪水があり、山が崩れ安郡郷の村や道路が埋まるなど大きな被害を受けたことが墳記に記されている。
 「濃之郡上河水大出山岳為之崩矣村郭為之失矣道路為之没矣、公自奮曰禹何人也、駆聚治内万姓畳山石築波堤者里許新鑿溝洫汨其道路而遠挽河水於安光郷自注地名、変原野作水田者、凡一万六千余歩、歳貢倍前、民咸懽賀、云々」。
 この「安光郷」とは吉田川流域にあった旧郷名の「安郡郷」の誤りで、(あこおりのさと)のことを「あこうのさと」と聞き誤り、好字を以て「安光郷」の文字を充てたものと思われる。

 応永十三年(1406)八月十七日、二十四日及び二十五日と相次いで上保川(長良川の上流域(上の方)のこと)で洪水があった(長瀧寺蔵荘厳講記録)。
 領地を洪水から守りかつ洪水で荒れた領地を復旧するためには小駄良川及び吉田川の治水整備が不可欠と考えた胤綱は、「蓋し中国黄河治水に功績があったという伝説の禹王の如く、自ら指揮して領内の農民を鼓舞し石垣や堤防を築くなどの復旧に奮闘して両川の治水工事を行い、新しく堀り割りを造って中坪及び小野辺り一帯の原野に水路を敷設して河水を引き込み、凡そ一万六千余歩を水田に造成させると歳貢が倍増して農民も大いに喜んだ」という。

 長瀧寺蔵荘厳講記録に「應永十六年己丑、此年依東四郎煩、土岐勢郡内發向、九月七日土岐一門悉気良中保マテ発向、当郡人々一味同シテ、中野川ニ構要害云々」という件がある。
 東四郎は、師氏(七十七歳)のことであるが、応永十六年(1409)には既に隠居しており、煩っていたのは城主東三郎氏数(二十六歳)であった。
 気良中保は地名ではなく気良庄中保のことで、現在の八幡町辺りのことある。
 郡上郡の山田庄へ配置された東氏の一族は、長良川上流側即ち山田庄以北を上保(かみのほう)と称し、長良川の下流側即ち南方を下保(しものほう)又は南保(みなみのほう)と称し、東方を明保(あけのほう)とも称した。
 後に吉田川流域を明保と称するようになり、中保の東側を和良保(わらのほう)と称するようになって、五保に別けて呼ばれるようになった。
 上保、中保、和良保、西保、下保及び南保の六保とするものがあるが、当時の「保」は現在の「方」であり、南保は現在の美並町辺りであった。

 気良庄の発祥地だった気良村には、土岐氏六代目の国成及びその子頼数が居住し、その地名に因んで気良氏を名字とした。
 その頃の寒水の地には既に山田庄側から田地を求めて入り込んだ坂東平氏である東氏の一族が寒水川の右岸側に住み着いており、これを警戒した頼数は隣村寒水を眺望できる山上に砦を設けてその麓に番小屋を設け東氏の動向を警戒していた。
 先年の台風による洪水があった小駄良川や吉田川の下流域で治水整備を行った胤綱は、その後も治水整備に尽力することを継続するとともに、自領の小駄良川流域を遡って峠を越え寒水の地に入る経路や、寒水から峠を越えて山田庄内へ入り牛道川流域を経て篠脇城下へ繋がる経路などを整備する中で、東庄の農民に寒水川の左岸側へは入らないように命じていたものと思われ、寒水という地名が付けられたのもこの頃と思われる。

 気良氏親子は東胤綱が土岐氏から気良庄に領知を与えられていることを知らなかったことから、頼数は六代美濃守護頼益に東氏が明保筋へ侵攻しようとしていると伝えたことにより、頼益が軍を率いて侵攻したことが考えられるが、土岐氏美濃守護は頼益の父頼忠の代の時に一族の協力が得られなくなって急激に弱体化しており、美濃守護の頼益が自ら郡上郡へ侵攻し他ということには疑問がある。

 一方、土岐氏が郡上郡侵攻を企てていることを知った郡上農民は、先年の洪水時に御恩のあるお殿様のお役に立てるのはこの時と、動くことができる者は老若男女を問わず直ちに中野村へ集まれとの触れが回り、これが波紋のように瞬く間に広がって続々と農民が集まった。
 集まった農民は次々と力のある男衆は犬鳴山の山上に砦を設ける事を手伝いに向かわせ、その他の者は持てる限りの大きさの石を持って犬鳴山の南東側の麓へ向かわせた。
 犬鳴山の南東側の麓では、大岩がある所に持ってきた石を積み上げ、更には現地で探すなどして山の斜面を登りながら、点々と石済みの要害を設ける作業が夜を徹して続けられた。

 九月七日、気良庄中保(現郡上市八幡町美山地内)まで侵攻してきた頼益が堀越峠の東に陣を敷くと、胤綱は数名の供を従えて樽酒を持参し頼益の陣を訪れた。
 胤綱は戦うことを望んでいないことを伝えて侵攻の意図を問うと、頼益から向かいの山には戦うための準備ができていることを咎められた。
 あれは農民が自主的に設けてくれたものであることを伝え、元服時の他姓親は頼康だったことやその時に気良庄中坪村に領知を与えられたこと、領知に館を設けた後土岐氏族の女を娶ったことなどに話しが及んだ。

 頼益にとって最も敬愛する伯父頼康が胤綱に領知を与えていたことなどを知り大いに喜んだ頼益は、胤綱を蓋世之才で越畔之思の人物であると称えた。
 これに因んで「之」の字と頼益の「益」の字を与えられて「益之」と名を改めることになり、胤綱の領内を流れる川の流域(明保)及び陣を敷いた和良村(和良保)を安堵されて、胤綱改め益之は明保及び和良保を領有することとなった。
 この後、気良村に居住していた気良氏は他所へ移住させられ、その後のことは記録に現れなくなった。

 益之と名を改めてからは、安堵された明保筋及び和良筋を大いに増殖させ、小駄良から寒水を経て気良峠を越え気良川右岸側へ繋がる捷径を整備させた。
 東氏一族は隠居すると「素」を通り字とした号を称したことから、益之は通り字と館のある明保の「明」の字により「素明」と号した。
 これにより「明保(あけのほう)」は「みょうのほう」とも呼ばれるようになり、「保」が「方」に転訛したことにより「明方(みょうのほう)」を経て「明方(みょうがた)」と呼ばれるようになった。
 土岐氏が気良庄中保へ侵攻した時に陣を敷いた所はその伝承により明治の時代になってからその地を「中ノ保」と呼ぶようになったが、時代の経過とともにその伝承は消滅し今では「中ノ保」の地名の由来を知る者は地元にもいないようである。

 「中野川ニ構要害云々」という件があるが、吉田川左岸側の河口付近に中野村があったことから、中野村では吉田川のことを中野川と称した可能性はあるものの、川はそれ自体が自然の要害であり川に要害を設けることはあり得ない。
 吉田川河口に近い右岸側に小野村があったことから、右岸側を小野側と称し、左岸側を中野側と称した可能性もあり、中野側と言ったのを中野川と思い誤って記された可能性もある。
 革手城(現岐阜市正法寺町)の頼益は和良保を経て侵攻してくると推測した郡上農民は、吉田川左岸側の山上(現在は犬鳴山(いんなきやま)と称されている)に和良保側を大手とする逆茂木などによる砦を設け、その眼下の山肌には石積みの要害を点々と構築したものが現在でも残っている。

 胤綱(益之)の正室は先妻、中妻及び後妻の三人とされ、その子は十四人が明らかにされているが、この中には側室がいてその子(庶子)がいる可能性もある。
 胤綱┬初妣源氏女の子氏数   1394/01/15生〜1471卒/享年七十八位
   ├初妣源氏女の子氏世   1397頃生〜卒年不詳
   │ 応永五年(1398)、先妻が死亡
   ├中妣東氏女の子宗祐   1399頃生〜卒年不詳
   ├中妣東氏女の子南叟龍翔 1401頃生〜1455卒/享年五十五位
   ├中妣東氏女の子素順尼  1402頃生〜1480卒/享年七十九位
   ├中妣東氏女の子素徳   1403頃生〜卒年不詳
   ├中妣東氏女の子宗雲尼  1404頃生〜1472卒/享年六十九位
   ├中妣東氏女の子常縁   1405生 〜1484卒 /享年八十
   ├中妣東氏女の子壽林尼  1410頃生〜卒年不詳
   │ 応永九年(1409)九月、胤綱改め益之を名乗る
   ├中妣東氏女の子宗林尼  1415頃生〜卒年不詳
   ├中妣東氏女の子妙訓尼  1420頃生〜卒年不詳
   ├中妣東氏女の子永マ尼  1425頃生〜卒年不詳
   │ 応永三十二年(1425)頃、中妻が死亡
   ├中妣の妹の子正宗龍統  1428生 〜1498卒/享年七十一
   └中妣の妹の子眞超    1433頃生〜卒年不詳
     永享五年(1433)九月十日、後妻(本通大姉)が死亡


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