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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

東益之

東益之の十三番目の子で臨済宗黄龍派の禅僧正宗龍統〈1428〜1498〉は著書「故左金吾兼野州太守平公墳記(続群書類従第八収録)」に父益之のことを詳しく記している。
 「先公諱益之、京人、姓平、其先千葉之族、有諱胤頼者、自注大千葉介第六子六頭之一也、食采下總州東庄、因氏焉、至公八世、曾祖考氏村、生而恵朗、長而凝静、檀美和歌之道、辱後醍醐皇帝寵命、於武者所宮中地名、献歌章、而名聞四方矣、祖考常顕、野州刺史、武烈而威、暗?叱綜ァ河水為之起湧、亦善歌詞、考師氏、總州刺史、傾而長、鬚髯麗、以人物稱、其歌詞之工、与祖及考、國系素胱無子、養公為子、胱父貞常、貞常行氏之長嫡、行氏(の子)氏村之兄也、公自幼有異質、胱訓之曰、以心副心、公終身以茲言銘、佩其冠、以源善忠土岐頼康為他姓父、自注倭之冠礼也、割与濃之坪、云々」(故左金吾兼野州太守平公墳記抜粋)。
 
 益之の先祖坂東平氏千葉胤頼が下総国東庄に居住しその地名に因んで東氏を名乗り、曾祖父氏村、祖父常顕、父師氏で益之は東氏八代目である。
 東氏四代目行氏の長嫡が貞常で貞常の弟氏村が益之の曽祖父である。
 貞常の長嫡(実名不詳)号素胱には子供がなく素胱は従兄弟常顕の孫を養子(後の益之)とし、嘉慶元年(1387)の早春に土岐頼康(1318〜1388)を烏帽子親として元服し胤綱を名乗って頼康から気良の庄中坪に良知を与えられた。
 「故左金吾兼野州太守平公墳記」の中に「行氏氏村之兄也」とあることから史料に「氏村胤行子」という付箋を付けた人があり、これが誤って後世に伝わり「行氏の子氏村は実は胤行の子也」と載せている文献があるが、氏村が亡くなったのは胤行が亡くなってから百四年以上後のことである。
 「貞常行氏之長嫡、行氏之子氏村之兄也」又は「貞常行氏之長嫡、氏村之兄也」とするところを正宗龍統は「貞常行氏之長嫡、行氏氏村之兄也」と誤記したものと思われる。
 略系図にすると次のようになる。
 千葉常胤(1118〜1201)─胤頼(1155〜1228・東氏の祖となる)─重胤(1177頃〜1247頃)┬胤方(海上氏)──────┬胤景
     └胤行(1194〜1273)┐  └盛胤(叔父胤行の養子)
┌──────────────┘
├女子上総泰秀室(1215頃〜没年不詳)(泰秀は1247に自害)
├二男太郎泰行 (1218頃〜没年不詳)
├三女三浦某室 (1220頃〜没年不詳)(三浦某は1247に所在不明の家村か)
├四男二郎某  (1223頃〜没年不詳)
├五男三郎某  (1225頃〜没年不詳)
├六男四郎義行 (1227頃〜没年不詳)
├七男五郎某  (1229頃〜没年不詳)
├八男六郎行氏 (1230頃〜1308)────────────────────┐
├九女二条流歌人(1240頃〜1325)                    │
├十男七郎顕信 (1250頃〜没年不詳)                   │
├養子七郎盛胤 (1250頃〜1312頃、海上弥次郎胤方の子)         │
└養子秀元   (生没年不詳)                      │
┌────────────────────────────────────┘
├貞常(生没年不詳)─────素胱(実名及び生没年不詳)─────────┐
├時常(生年不詳〜1312)                         │
└氏村(1280頃〜没年不詳) ─常顕(1304頃〜1371頃) ─────────┐│
┌───────────────────────────────────┘│
│┌───────────────────────────────────┘
│└養子胤綱(1376〜1441・師氏の子)
│ 後の益之
│   ├初妻源氏女の子氏数(1394〜1471)師氏の子
│   ├初妻源氏女の子氏世(1397頃〜没年不詳)安東祐氏の娘の婿養子となる
│   ├中妻東氏女の子宗祐(1399頃〜没年不詳)
│   ├中妻東氏女の子南叟龍翔(1401頃〜1455)
│   ├中妻東氏女の子素順尼(1402頃〜1480)
│   ├中妻東氏女の子素徳(1403頃〜没年不詳)
│   ├中妻東氏女の子宗雲尼(1404頃〜1472)
│   ├中妻東氏女の子常縁(1405〜1484)
│   ├中妻東氏女の子壽林尼(1410頃〜没年不詳)
│   ├中妻東氏女の子宗林尼(1415頃〜没年不詳)野田氏光室、晩年に出家
│   ├中妻東氏女の子妙訓尼(1420頃〜没年不詳)
│   ├中妻東氏女の子永マ尼(1425頃〜没年不詳)
│   ├後妻(中妻の妹)の子正宗龍統(1428〜1498)
│   └後妻(中妻の妹)の子眞超(1433頃〜没年不詳)
└─師氏(1343−1426)────────────────────────┐
┌───────────────────────────────────┘
├泰村(1366頃〜1402頃)
├江西龍派(こうせいりゅうは、1372頃〜1446)
├益之(1376〜1441)
├慕哲龍攀(ぼてつりゅうはん、生没年不詳)
└養子氏数(1394頃〜1471・益之の長嫡)

 老いた養父のこともあってか胤綱は十五、六歳の頃に気良の庄中坪の良知に館を設けて十八歳までには土岐氏一族の娘と結婚している。
 明徳五年(1394)正月十五日に長嫡(後の氏数)が生まれ、二人目の子(後の氏世)が生まれた翌応永五年(1398)に最初の妻が亡くなった。
 
 胤綱の実父で三代篠脇城主の師氏は、応永九年(1402)頃に長嫡泰村に家督を譲って隠居したが、その後間もなく泰村は無子のまま三十八歳位で亡くなった。
 泰村の次弟江西龍派は建仁寺僧であったことから年老いた師氏は胤綱に跡を継いで貰うことを望んだが、子供が多かった胤綱は養父素胱も年老いていたことから長嫡(後の氏数)を師氏の養子とすることにして養父の承諾を得た。
 応永十年(1403)頃、十歳位で元服させて養父師氏の四番目の男児となったことで及び氏の一字を以て東四郎氏数と名乗らせるとともに、四代篠脇城主の家督を継がせて自らは父師氏に代わって氏数を後見し四代篠脇城主の名代を務めた。

 応永九年(1402)七月に台風があり小駄良川及び吉田川が洪水し山が崩れて安郡郷の村や道路が埋まるなど大きな被害を受けた。
 更に応永十三年(1406)八月十七日、二十四日及び二十五日と相次いだ大雨により上保川(郡上市八幡町から上流域の長良川のこと)で洪水があった(長瀧寺蔵荘厳講記録)。
 この頃の胤綱は気良庄内に与えられていた所領の小駄良川流域を遡って峠を越え寒水の地へ繋がる道を拓く一方で吉田川下流域の整備にも尽力していたものと思われる。
 良知を洪水から守りかつ洪水で荒れされた領地を復旧するためには小駄良川及び吉田川の治水整備が不可欠と考えた胤綱は、蓋し中国黄河治水に功績があったという伝説の禹王の如く自ら指揮して領内の農民を鼓舞し、石垣や堤防を築くなどの復旧に奮闘して両川の治水工事を行った。
 併せて新しく堀り割りを造り中坪及び小野辺り一帯の原野に水路を敷設して川水を引き込み、凡そ一万六千余歩を水田に造成させると歳貢が倍増して農民も大いに喜んだ。
 「故左金吾兼野州太守平公墳記」に「濃之郡上河水大出、山岳為之崩矣、村郭為之失矣、道路為之没矣、公自奮曰、禹何人也、駆聚治内万姓、畳山石築波堤者里許、新鑿溝洫、汨其道路、而遠挽河水於安光郷、自注地名、変原野作水田者、凡一万六千余歩、歳貢倍前、民咸懽賀、云々」という件がある。
 「安光郷」とあるのは濃州郡上郡安郡郷の「あこおりのごう」のことを「あこうのごう」と聞き誤ったか記憶誤りから「安光郷」の好字を充てたのであろう。

  気良縁数からの知らせがあったのか山田の庄の東氏が気良の庄へ侵出していることを知った九代美濃守護土岐頼益は直ちに郡上郡侵攻を開始した。
 これを知った胤綱は吉田川下流域左岸の山上に砦を築城することとし、災害復旧や新田開発を推し進めるなどした胤綱に篤い信頼を寄せる小駄良川下流域の中坪や吉田川下流域右岸の小野の郡上領民はこれに協力して砦大手側の斜面へ石を運び上げ、現地に点在する大岩を利用するなどして石積みの要害を設けた。
 応永十六年(1409)九月七日に気良の庄中の保(現在の郡上市和良町美山中ノ保)まで侵攻してきた頼益は堀越峠の東に陣を構えた。
 領民のためにも戦いを避けたい胤綱は自ら頼益の陣中を訪れて和睦交渉を行い、胤綱が伯父頼康の烏帽子児であることや気良の庄の良知はその時に伯父から与えられたものであること、要害は領民が構築してくれたものであることなどを申し述べると頼益は大いに喜び、明の保、和良の保及び中の保の安堵とともに頼益の一字を与えて名を益之と改めさせた。
 気良頼数は気良の庄を離れることとなり、名を改めた益之は明の保筋(吉田川流域)及び和良の保筋(現在の和良町)を大いに増殖させた。
 これにより寒水の地の西は牛道川上流域へ、東は気良川右岸上流域へ通じる道が拓かれ、特に西気良村は寒水の地を経ての篠脇城や益之の館へ捷径となった。
  長瀧寺蔵荘厳講記録に「應永十六年己丑、此年依東四郎煩、土岐勢郡内發向、九月七日土岐一門悉気良中保マテ発向、当郡人々一味同シテ、中野川ニ構要害云々、属無為里帰云々」とある。
 応永十六年(1409)には師氏は既に隠居し出家して「素杲東下野入道」を称していたので東四郎とあるのは病弱だった氏数のことで、東三郎は氏数とするものがあるが三郎は益之である。
 瀧寺蔵荘厳講記録に「中野川ニ構要害云々」という件があるが「中野川」は「中野側」の当て字又は口伝による誤記たのであろう。


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