本文へスキップ

明宝寒水史は校正が不十分で誤植があります。当サイトの正誤表をご参照ください。

TEL. 0575-87-0000

〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

逸話釋氏聞説

 前の布頭家の平八(1761~1831、幼名不詳)は幼少の頃、近くの浄土真宗修善坊で読み書きを習い、天文五年(1740)に婿入りして入寺し十一世住職となった釋圓了(1700~1791)に可愛がられて住職の読経時にはその脇についてお経を読み、字が読めるようになると自ら次々とお寺にある経典を読破して殆どの経典を覚えてしまった。
  平八は住職が本寺照連寺へ出向する際はこれに随行し、照連寺でもその教えを受けるなどして終には一切経まで会得した。
 一切経とは、経蔵、律蔵、論蔵の三蔵及びその注釈書を含めた仏教聖典の総称である。

  ある日、平八はいつものように圓了に随行して白鳥村の長滝寺を訪れた時、番僧が経典の虫干しをしていた。
 見たこともない立派な装丁の経典が沢山あることに感嘆した平八は思わずその中の一冊を手に取って広げた処、是を見た番僧から「餓鬼が見ても判りゃせん。あっちへ行け。」と怒鳴られた。
 驚いて開いた経典を閉じ元に戻したが、見たいものが見えないことと怒鳴られたことが悔しくて堪らなかった平八は一計を案じた。
 子供が頼んでも見せては貰えそうにはないのでせめてこの餓鬼呼ばわりをした番僧の鼻を明かしてやりたいと考えた平八は番僧が指を差した方向へ行き、「俺の一切経も此処で虫干しをさせて貰おう」と言って腹を出し並べてある経典の隣へ仰臥した。
  番僧は「貴様の腹の虫干しと一緒にするとは無礼な奴だ。」と怒り、これを知って寄って集った他の番僧達と平八は一切経問答をする羽目となった。

 騒ぎを聞いて現れた圓了及び長滝寺の和尚は、怒り狂ったような番僧達の問いに平然と然も滔々と答える平八の様子に唖然とし、困った和尚は「それでは当寺にしばらく逗留して番僧達に一切経の読誦を聞かせてやってくれ」と言うと、番僧達も「そうだ、早速聞かせて貰おう」と迫ってきた。
 仕方がないと思った平八は「それでは今から早速始めても一切経を読誦するだけでも三日三晩はかかるので、米三升の飯を焚いて貰いたい」と応じた。
 和尚は「そりゃ困った。当寺には今そんなに米の余裕はない。それだけ焚くとお前たちの食い扶持がなくなるがよいか」と番僧達に言ったことで番僧達は静かになり、両住職の取り成しもあってこの場が納まった。

 明和七年(1770)頃、隠居し七十路(ひちそじ・現在はしちそじ又はななそじと読むようになった)に入った園了は、宝暦十二年(1762)八月に記していた大仏供養物語の写し及び自ら詠んで記した釋教歌数十首を本山へ奉納するために京へ出向いた。
 この時、十歳位だった平八は園了に連れられて一緒に本山へ行き、十九世乗如光遍聖人(1744~1792)の得度を受けて釋聞説の法名を賜った。

 当家の墓地には「南無阿弥陀仏 享保八癸卯年 開山 二十四日」と刻された墓石があり、そこには「釋氏聞説 釋尼妙念 天保四巳四月十六日」と刻された墓石がある。
 墓地開山の享保八年(1663)は文禄元年(1592)生れの五郎左衛門(七代目とされる)の墓を建立した時と思われ、平八は天保二年(1831)三月十四日に亡くなっており、天保四年(1833)四月十六日に亡くなったのは平八の妻である。

  浄土真宗の法名は「釋○○」と記すが、「○○」の前に男性は「釋氏○○」、女性は「釋尼○○」のように「氏」及び小さく「尼」が付記されているものがある。
 「釋」は釈迦の「釈」であり、通常、男の法名には「氏」を標記しないが僧侶であったことを示して用いる場合がある。

 布頭家十三代目とされる三郎左衛門平八事釋聞説であるが、家業は弟の浅次郎駒吉(1771~没年不詳)に任せた。
 文政五年壬午(1822)の寺の本堂再建に当り、久作(十一代目とされる三郎左衛門久作から当家のことを久作とも呼ぶようになった)の屋敷前の畑の一角壱畝歩(九十九平方米)を本堂屋敷として売り渡している。

 明方村史史料編上巻146ページ
 本堂屋敷証文之事(写し)
其御寺本堂再建ニ付屋鋪之儀依御望久作屋敷之内壱畝歩礼金為三両差上申候処実正二御座候右屋敷之儀ニ付我等子孫ニ至迄故障之儀無御座候若於以後違乱申者御座候ハゝ加印之者共急度埒明可申候為後日屋敷証文一札仍而如件文政五午年四月
 寒水村売主駒吉㊞(布頭家浅次郎の弟) 地主聞説㊞(布頭家浅次郎の兄)
 同村世話人儀兵衛㊞          同村同断忠右衛門㊞(天竺家)
 同村百姓代四郎兵衛㊞(桂本家)    同村組頭彦右衛門㊞(中島家)
 同村庄屋忠右衛門㊞(天竺家)
 当村本光寺様

 布頭の家号は字に転訛して残り、明治二十六年(1893)に十五代目の教平が北海道へ移住することを決意し、借財の精算及び移住経費捻出などのため、布頭の家屋敷及びその周辺の田畑の一部を本光寺の分家熱田保の又左衛門に売却した。
 教平には父仙三郎(1802~1870)の後妻の子で「くら(1868~1916)」という妹がおり、岩会津の由松(1864~1945)を婿に向かえて布頭の脇にあった小屋で所帯を持っていた。
 その由松くら夫妻には布頭家屋敷の上ラ方の田畑を分与して寒水増田家の十六代目を継承させ、由松は岩会津の分家陰地和田家の北側に家屋敷を移した。
 昭和二十年(1945)に由松の長男為平が十七代目を継承し、後に日当たりのよい現在の地(布頭家の上ラ)を買い戻して家屋敷を此処へ移した。
 昭和四十八年(1973)五月二十八日に行年七十二歳で為平が亡くなり、十八代目となった厳氏は生涯独身を通し、平成時代の終わりに高齢のため寒水の地を離れた。

バナースペース

明宝寒水史

〒501-4302
岐阜県郡上市明宝寒水

TEL 0575-87-0000
FAX 0575-87-0001

inserted by FC2 system