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東常縁

 胤綱の八番目の子で二人目の妻の子が常縁である。
 益之は永享四年己酉(1432)に出家し素明を号しているが、これは素明の館がある方を明の方と称するようになったものではなく明保一円を領していたことによるものである。
 隠居した益之の館や気良庄の良知などの家督を継いだ常縁は康正元年(1455)に幕府から下総国で続いていた千葉家の内紛を治めるための派遣を命じられた。
 この幕命は美濃東氏の当主であった篠脇城主氏数に命じられたものであったが病弱な兄に代わって気良庄八幡村(現郡上市八幡町)の小駄良川河口付近に舘のある常縁が本家のある下総国東庄へ遠征した。
 その遠征から十三年目の応仁二年(1468)九月、下総国遠征が長引いて手薄のままとなっていた篠脇城が美濃守護代の斎藤持是院法印妙椿に奪われた。
 この時篠脇城主氏数は気良庄に逃げたとされているが、その身を寄せたのが常縁の館である。
 この斎藤妙椿に奪われた氏数の居城篠脇城は常縁と妙椿との歌の遣り取りにより戦わずして返還されたことで有名である。
 常縁は篠脇城下で連歌師飯尾宗祇へ切り紙による古今伝授を行ったとされるが、その城下とは八幡村の常縁の館のことである。
 文明三年(1471)正月二十八日から同年四月八日までは遠江国三島で行われ、六月十二日から七月二十五日までは常縁の館で二度目の伝授が行われた。
 飯尾宗祇は常縁の館に近い小駄良川河口の近くに草庵を組んで住みここから常縁の館へ通って古今伝授を受けたのである。
 斎藤妙椿から篠脇城を返還された二年後の文明三年(1471)五月八日に篠脇城主氏数が亡くなり、その翌月に常縁の館での二度目の古今伝授が行われたことになる。
 益之もその子常縁も篠脇城主になったことはなく、益之から継承した家督は常縁から嫡男頼数(後に縁数と改めた)が継承し八幡村の館に居住した。
 

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