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明宝寒水史は校正が不十分で誤植があります。当サイトの正誤表をご参照ください。

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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

明宝寒水の変遷

 明宝寒水(めいほうかのみず)を囲む四方の山は位山の分水界山脈の支脈で烏帽子岳を起点として弧を描くように南西から南東へと標高を下げ、明宝地区以外では郡上市白鳥町、大和町、八幡町及び高山市荘川町と隣接している。
 この位山は上古全山に一位の木が繁茂しており、この木が笏材に賞用されたので位を賜って一位の木と称し、山を位山(くらいやま)と言うようになったと伝わる。
 吉田川の支流である寒水川の全長約十一粁はその源を烏帽子岳の南西の斜面から発して大小四十有余の洞谷の水を集めて南に流れ、石仏(いしぼとけ)から棚井(たない)までは八幡町地内を流れて吉田川と合流する。
 寒水史(佐藤宮次郎著)に「平将門関東八州を占拠せんとす謀反のために誅せられ其一族身の危険を恐れ諸方に流浪し流れ流れて此の寒水の地に入る。〜中略〜寒水に入るには先づ一つの難所あり即ち現今の口明方(くちみょうがた)村界の歩岐である云々」という件がある。
 平将門や源義経にまつわる伝説は各地に多くあり平将門の一族が寒水へ落ちてきたということは有り得ないが、口明方村界の歩岐というのは寒水川が吉田川に合流する棚井辺りのことで、この辺りの右岸側は険しい山肌で深い渓谷となっている。
 吉田川右岸側を遡ってこの旧口明方村の歩岐に阻まれ行き止まりになった辺りにできた集落の里人は、烏帽子岳の方から流れて来る水を神の水と崇めその水が流れる洞谷を神の谷と呼んでこの集落は神谷郷(かみのたにのさと)と称された。
 室町時代に寒水の地へ人が入り始めると神水は「かみのみず」とも「かのみず」と呼ばれていつしか「かのみず」という呼び方に転訛し、寒ノ水、嘉ノ水又は鹿ノ水などいくつかの文字が当てられるようになった。
 「寒水(かのみず)」と呼び記すことが定着したのは明治時代半ばを過ぎてからのことである。
  明方(みょうがた)筋は郡上郡始置の経緯からすれば安郡郷の中にあったものと考察するが、荘園時代の寒水川流域は安郡郷又は栗栖郷のいずれに属したかは勿論のこと気良庄又は山田庄のどちらに属していたかさえ不明である。
 これは両庄の境辺りに位置した寒水川流域が四方を山に囲まれた人跡未踏の山間地で、東氏(とうのし)が入郡する以前はいずれの庄にも認知されていなかったようである。
 吉田川支流の寒水川流域に位置する美濃国濃州郡上郡寒水村は明保(みょうのほう)筋と上保(かみのほう)筋を結ぶ山道の要衝で、明治の初め頃までは長良川の支流吉田川上流域に寒水村、大久須見(おぐすみ)村、神谷(かみたに)村、二間手(ふたまて)村、東気良(けら)村、西気良(けら)村、畑佐(はたさ)村、奥長尾(おくなご)村、口長尾(くちなご)村、漆原(うるしばら)村、鎌辺(かまべ)村、坂本)村があった。
 明治八年(1875)に東気良村及び西気良村が合併して気良村になり、奥長尾村、口長尾村、漆原村、鎌辺村、坂本村の五箇村が合併して奥住(おくずみ)村になり、同年、大久須見村及び神谷村が合併して大谷(おおたに)村になった後、明治二十二年(1889)に旧神谷村は有穂(ありほ)村へ吸収されたが大谷村の村名はそのまま残った。
 明治三十年(1897)四月一日に吉田川上流域の寒水村、大谷村、二間手村、気良村、畑佐村、奥住村の六箇村及び飛騨川の支流弓掛川上流域の小川村が合併して奥明方(おくみょうがた)村となり、旧七箇村の村名は大字となった。
 同日、初納(しょのう)村、小野村、旭村、市島村及び有穂村が合併して口明方村となった。
 昭和二十九年(1954)十二月十五日に口明方村が八幡町へ合併しし、昭和四十五年(1970)四月二十日、奥明方村は「奥」の文字を省略して明方(みょうがた)村に改称するとともに大字の標記を削除した。
 「寒水(かのみず)」の呼称は、昭和二十二年(1947)四月の新学制実施に伴って学校名が村立寒水小学校に改称されると共に明方中学校寒水分校が設置されるとともに、新任の小学校長が中学の分校長を兼任し、この校長が「寒水」を「かんすい」と呼び、「明方」を「めいほう」と呼んで、これを正す者がいなかったことからそれぞれ「かんすい」及び「めいほう」の読み書きが定着してしまった。
 昭和三十年代の初めに学業を終えて寒水の寺院本光寺へ戻った住職は「寒水」の誤った呼称を本来の呼び方に戻したいと考え、教育委員会やマスメディアなどを通じて尽力を重ねた結果、平成の時代になってから漸く「かのみず」という呼び方が浸透してきた。
 また、昭和二十三年(1948)八月に奥明方村農業協同組合が組織され、昭和二十七年(1952)には食肉部ができて昭和二十八年(1953)に二間手に食肉工場が建設された。
 昭和三十年(1955)及びその翌年にハム・ソーセージの製造講習が行われてこれに参加した若者達の手によって「明方ハム」が生産されるようになった。
 これが生産能力を超越して売れるようになり発売日が特定されたが、その発売日に店頭へ並ぶことは滅多にない状態であったことから「幻のハム」といわれるようになり、後に各地の村興しや町興しなどで「幻の○○」と称されて使用される語源となり現在も多く使用されている。
 昭和四十八年(1973)三月に郡上郡内の明方、口明方、八幡、和良(わら)、西和良、相生(あいおい)及び美並(みなみ)の七協同組合が合併して郡上郡農業協同組合が結成されたことにより「明方ハム」は郡上郡農業協同組合の主力商品になった。
 明方村で独自に開発し販路を拡大してきた明方ハムで村の活性化を図ろうとしていた明方村は、第三セクター方式による会社を設立して新たにハム生産工場を建設することとし、郡上郡農業協同組合に明方ハムの商標返還を申し入れてその内諾を得ていたが、郡会議員の選挙や農業協同組合組合の代表役員の交代などが絡んでこの内諾を反故にされてしまった。
  明方村の村名は「めいほう」と読まれることが多く、既に開設していたスキー場は「めいほうスキー場」と名付けていたこともあり、ハムの生産技術及びその販路は村の宝であるとして、商品名を明宝(めいほう)ハムと命名し生産販売を開始した。
 めいほうスキー場は農閑期の村民の働き場所として村を活性させ、国からふるさと創生費が歳出された時にはこれで温泉を掘り当てて明宝温泉を誕生させるなどして過疎の村を大きく活性化させた。
 昭和四十五年(1970)四月の村名改称から二十二年後の平成四年(1992)四月一日、半世紀の間に二度の村名変更をするというる前例のない状況下で村名も明宝村に変更することが承認された。
 平成十四年(2002)には郡上郡内の八幡町、白鳥町及び大和町の三ヶ町並びに明宝村、高鷲村、美並村及び和良村の四ヶ村を合併して市制とする郡上郡町村合併の協議が進み、平成十六年(2004)三月一日に郡上市制が発足して明宝村内の住所標記は前の標記から「村」の文字のみを除いたものとなり、郡上郡明宝村寒水は郡上市明宝寒水となった。

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