郡上八幡城の南東方向に赤谷山城址及び東殿山城址がある。
この山から湧出する水は鉄分が多く空気に触れて酸化した沈殿物により川底が赤く染まっていたことから江戸時代の地元歴史学者はこの谷を赤谷と名付けた。
昭和の時代になってこの山を犬鳴山(いんなきやま)と称するようになり、山上には三角点標がある。
その位置は北緯三十五度四十四分三十三.九秒、東経百三十六度五十八分十一.三秒辺りで、地図に標高五百七十八米と標記されている。
この三角点から東西にそれぞれ約百五十米離れた所に小高い峰があり、東側の峰の標高は五百九十数米、西側の峰の標高は五百八十数米である。
いつしかこの西の峰に赤谷山城址があり東の峰に東殿山城址であるとするようになり、さらに平成の時代の半ばを過ぎるとWebサイトの記事投稿者が赤谷山城址及び東殿山城址の山は全く別の山だとするものまでが現れるようになったがこれはいずれも誤りである。
応永十六年(1409)、西濃居住の美濃守護土岐頼益が郡上へ侵攻してくるという情報を得た郡上東氏五代目の胤綱(後の益之)は中野側の山上に砦を設けた。
これに協力した領民は石を運び上げて南側及び東側の斜面の現場にある岩を利用したりして石を積み上げ点々と数多の要害を設けた。
長瀧寺蔵荘厳講記録に「應永十六年己丑、此年依東四郎煩、土岐勢郡内發向、九月七日土岐一門悉気良中保マテ発向、当郡人々一味同シテ、中野川(中野側の当て字)ニ構要害云々、」とある。
後世にこの石積みが残っている山を赤谷山城址と名付け、郡上東氏十一代目常慶がこの赤谷山城址を利用して砦を設けたことから里人がこの山を東殿山城(とうのどののやまじろ)と称するようになったという伝承に因み、これを東殿山城址と名付けて区分した。
東殿の山城があった山はいつしか東殿山(とうどのやま)と称されるようになり、さらに東殿山(とうどやま)と誤読されるようになった。
永禄二年(1559)、遠藤盛数は義弟東常堯に兄胤縁を殺害されたことに怒り、義父東常慶及び常堯父子の館を攻めて追放した。
郡上一円を領するようになった盛数は兄胤縁の居城木越城及び所領を兄の子胤俊に継がせ、自らは八幡山に城を築いて本拠とした。
永禄五年(1562)十月十四日、盛数が死亡し十三歳の子慶隆が後を継いで、母は慶隆を守るために翌永禄六年(1563)に関城主永井隼人と再婚し娘千代と共に関城へ移った。
遠藤慶隆は織田信長配下となり姉川の合戦など各地に転戦して戦功をあげたたが、 信長が本能寺の変で死亡した後は織田信孝に属した。
信孝が羽柴秀吉と戦いこれに敗れた後の慶隆は秀吉に仕えたが、天正十六年(1588)に郡上八幡二万石から加茂郡小原犬地七千五百石て転封させられた。
慶長五年(1600)、関ケ原の合戦の前に慶隆が家康に郡上奪還を願い出ると家康は慶隆の妹を妻としている飛騨の金森可重に援助を命じた。
九月一日、慶隆は大宮山王に陣を構え可重は小野山に陣取って両側から八幡城の稲葉通孝を攻め激戦が終日続いた。
翌二日に通孝から和睦の申し出があって慶隆は大宮の陣を解き愛宕山の本陣へ兵をひいた。
その頃犬山城にいた稲葉貞通が八幡城が包囲されたとの報を受けて三日の明け方に慶隆の愛宕山本陣を奇襲した。
慶隆は小野山の可重の陣に危うく逃れ、貞通は凱歌をあげて八幡城に入ったが通孝から既に和睦が整っていたことを聞き及び改めて和睦した。
稲葉貞通は豊後国臼杵へ五万石で転封となり慶隆が郡上八幡城へ帰還した。
正保三年(1646)十二月、三代城主となった遠藤常友が寛文七年(1607)に幕府に届け出て城の大修築とともに近郷の寺院を城下に集め「八家九宗」を形造るなどして城下を拡張整備し幕府から城主格から城主の称を許された。
元禄五年(1692)三月、五代目城主常久は七歳で死亡し郡上八幡遠藤氏は無嗣改易となって、十一月に常陸国笠間城主井上中務少輔正任が五万石で八幡城主となった。
しかし、幕府家老衆は慶隆初め郡上遠藤氏の徳川家への功績を認め、大垣藩の一門戸田氏成の養子数馬に胤親を名乗らせて遠藤家を再興させ、常陸国及び下野国に合わせて一万石が与えられた。
元禄十年(1697)、二代城主正岑が丹波国亀山に転封となり、同年六月十一日に羽州上山から元高山城主金森出雲守頼?が三万八千石で入封した。
元文元年(1736)、頼?が死去すると嫡孫の頼錦が二代目城主を継いで外様でありながら幕府の奏者役という重職に任じられた。
これにより出費が多くなって国元の家老は年貢増徴の苦肉の策を講じた。
宝暦四年(1754)、終に領内の農民が蜂起して一揆が起き、農民の代表が出府して老中酒井忠寄に駕籠訴を行なった。
宝暦八年(1758)四月二日、将軍徳川家重に箱訴をして窮状を訴えたため、頼錦は治世怠惰の責任を問われ金森家は断絶となった(宝暦騒動又は郡上一揆と称される)。
宝暦八年(1758)、丹後国宮津の城主青山大和守大膳亮幸道が郡上へ国替を命ぜられ、翌九年(1759)六月に幸道が四万八千石で入封した。
以来青山氏は郡上藩の領主として七代百十一年間続き、明治二年(1869)に青山幸宜が版籍を奉還した。
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