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明宝寒水史は校正が不十分で誤植があります。当サイトの正誤表をご参照ください。

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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

領家と番屋の屋敷名の由来

 明宝寒水に領家(画像左)及びその隣に番屋(画像右)という屋敷名(家号)乃家があるが、領家は庄園時代の領家職とは全く無関係である。


 寒水の領家は、江戸時代の初期に西気良村から寒水村へ移住した和田治郎左衛門正乗が村人から「領家」と呼ばれたことに由来する。

 寒水の番屋は、和田治郎左衛門正乗が農民を増やすために西気良村の二男三男など跡継ぎに慣れない者を呼び寄せて居住させるために設けた番小屋があった所に由来する。

いずれも、江戸時代の検地に際し庄屋が予め差し出す検地帳に、村役が屋敷や田畑などの一つ一つに地名を付けて記載したものが後世に継承されたものである。
 寒水村は、川の下流側に歩危があって両岸(左岸側は栃畑から石仏まで、右岸側は河口に棚井から下中島まで)のいずれからも容易には上流域へ入り込むことができない人跡未踏の地であったことから、気良庄又は山田庄のいずれに属したかを示す史料が見つかっていない。
 気良庄領主及び山田庄領主のいずれにも認知されていなかったものと思われるので、今後も見つかることはないものと思われる。

 坂東平氏の東氏が郡上郡山田庄の地頭として入郡したことにより、山田庄の一族は耕地を求めて徐々に牛道川の上流域へ入り込み、栃洞村辺りから山を越えた一族が初めて現在の明宝寒水字桜尾辺りの好適地に辿り着いて住み着いたものと思わる。
 この地に住み着いた山田庄の一族はこの地の川(寒水川)を気良庄との境に見立てたのか、左岸側の下流域には平坦地があるものの左岸側に入った形成がなく、この慣習は慶長の時代に至っても継承されていたようである。

 天正十五年(1587)、羽柴秀吉により郡上八幡城主遠藤慶隆は加茂郡小原村(現加茂郡白川町河岐)へ転封させられ、木越城主遠藤胤基は加茂郡犬地村(現加茂郡白川町三川)へ転封させられた。
 これにより、木越城主遠藤胤基に仕えていた家老の寒水村地頭遠藤善右衛門及びその一族郎党の殆どが寒水の地を離れたが、主君胤基は減封されての国替えであったことから、鷲見四郎兵衛某や金子彦右衛門某など一部の家臣は自ら随行することを辞してこの地に残り浪人となった。
 当時の武士は地侍と称し、普段は農務に勤しみ、役目を与えられた期間は出仕し、戦いの時に徴収されるというものであった。
 両遠藤氏が転封された翌年、検地制度が設けられた。

 寒水村地頭遠藤氏が寒水を離れた後の村内は、僅かの浪人、飛騨国白川郷中野照蓮寺末寒水道場四代住持釋了敬の一家及び五郎左衛門の一家だけとなって、これ以後寒水村は荒廃して行くことになった。
 慶長五年(1600)九月十五日にあった関ヶ原の戦いの前に、八幡城主だった遠藤慶隆は徳川家康に従属することを決め、家康に郡上八幡城奪還を願い出ると家康はこれを悦んで許し、慶隆の娘を室とする高山城の金森可重に加勢を命じ、可重は直ちに国元へ帰ってこのことを父の高山城城主長近に伝え父子で慶隆の八幡城奪還を援けた。

 関ヶ原の戦いで慶隆は東軍に属して参戦したが、元木越城主だった従弟の胤基は病死しておりその跡を継いだ甥の胤直(胤基の弟胤重の子)は寝返って西軍に属し、西軍が敗れると胤直は遁走して一時行方不明になったことから家臣は離散し、遠藤氏に従って離村していた者の中には浪人となって帰村した者もいた。
 慶長五年(1600)十一月に郡上八幡城主へ復帰した慶隆は、約二十五年後に寒水村が荒廃していることを知り、元家臣で慶隆が転封する際に居住する西気良村に残って帰農していた和田治郎左衛門正乗に寒水村の再開発を要請した。

 父與平治の嫡男である正乗は慶隆から再三寒水村の再開発を頼まれたことにより、寛永年間(1624~1643)の初め頃に西気良村の跡を弟治郎右衛門に譲り、「御年貢米合わせて四拾五石で御役目や検地はなし」という証文を請けて、約四十年前まで寒水村地頭遠藤氏の居館であった家屋へ妻とともに仮引っ越しして寒水村の再開発に取り懸かった。

 寒水川の左岸側に初めて入る人となった治郎左衛門は、自分の家屋敷及び浪人などを住まわせる家屋敷を設けることから始めるとともに、寒水に在住する浪人には帰農することを進め、西気良村の二男三男などを寒水村へ入村させる勧誘を行い、他村の者でも来るものはすべて受け入れて農民を増やす算段をした。

 寛永四年(1627)、治郎左衛門は帰農することにした者などや寒水村に在住する者達とともに松畑の屋敷の西側に堂宇を建立し白山大権現を勧請した。
 その翌年の寛永五年(1628)、完成した家屋敷へ一家で移り住み妻子とともに正式に西気良村から引っ越した。

 古文書に「寒水和田氏先祖之覚」があり、「寛永つちのへ辰五年二月、寒水村三拾弐年以前よりあれ申候て、百姓弐人御座候」という件がある。
 寛永戊辰五年(1628)の三十二年前は文禄五年/慶長丙申元年(1596)で、寒水地頭の遠藤氏が一族揃ってこの地を離れてから十年目である。
 更にその二十六年前の元亀元年(1570)の古文書に五郎左衛門の名があり、「百姓弐人御座候」とあるのはこの五郎左衛門及びその子のことである。

 治郎左衛門は寒水川左岸の歩危を境にして、その下流側を下モ会津組として嫡男治左衛門に組頭の役を負わせ、上流側を奥会津組として次子治右衛門に組頭の役を負わせた。 また、他村から集めた農民は番小屋に住まわせて、開発した土地及び開発するとした土地はその者に与えるという施策を以て農民の開発意欲の高揚を図った。
 所有者が決まっていない寒水村の土地はすべて治郎左衛門が所有者であり、番小屋住いの者は当初治郎左衛門の土地を借りて荒れ放題となった土地を再開発して若干の借地料(年貢)を納めながら自分の土地を確保し家屋敷を持てるようになった。
 これが領主に対して賦課を追うことのようだということから治郎左衛門は「領家」と呼ばれるようになり、検地帳に庄屋が治郎左衛門の屋敷名を「領家」と記し、隣接する番小屋を「番屋」としたのが両家の屋敷名(家号)の由来である。

 治郎左衛門の寒水村再開発施策により、寛永七年(1630)の寒水農民は、治郎左衛門(領家)、喜左衛門、喜右衛門、助左衛門、助右衛門、太郎左衛門(太郎左)、太郎右衛門、忠左衛門、忠右衛門(天竺)、彦左衛門、彦右衛門(中島)、三郎左衛門(布頭)、三郎二郎、四郎兵衛(前の桂本)、五郎左衛門(布尻)、五郎兵衛(布尻)、九郎右衛門(見座)、久蔵、忠蔵(忠蔵畑)、作蔵、吉蔵(歩岐分)、孫六、弥七郎、孫左衛門、作四郎、助兵衛、助市、助五郎、惣二郎、藤右衛門、又市、又右衛門、仁兵衛、与兵衛、与三兵衛、与七郎(前の大畑)の三十六戸となった。

 寒水村の検地を免除されていた治郎左衛門は、仮入村してから約十年後の寛永十一年(1634)に、自ら検地を申し出で寒水村の検地が行われた。
 この検地帳の集計結果は、次のようになる。
 浅田忠右衛門打口分:七町五反六畝六歩/九十六石九斗二升四合○勺
 新見角兵衛打口分 :八町四反四畝十歩/百八石三斗六升五合一勺
 両氏の打口合計  :十六町○反○畝十六歩/二百五石二斗八升九合一勺
 この内治郎左衛門 :五町○反八畝八歩/六十五石七斗六升二合八勺

 寛永十一年(1634)の検地の内容は、明治三十三年(1900)の写しが古文書として残るのみである。
 この写しにある合計数が異なっていることや、宝永五年(1708)以後に母袋村から分家して寒水村へ入村した忠右衛門が、本家の屋敷名を名乗ったという田代の地名があることなどから、寛永十一年(1634)の検地帳を基にして、その後の検地の時に追記や数値の書き換えが行なわれたものであることが判る。

 なお、「寒水の掛踊調査報告書(平成29年3月発行)」の十頁に高橋教雄氏(郡上市文化財保護審議会長)の「寒水村の歴史(一)中世の寒水村」があり、その中に「寒水村を含む山田庄の本家職は、~中略~寒水村には荘園経略の二拠点として領家職が置かれていた。今も領家など当時の残存字名などが残る。」とある。

 これは全くの誤りで、前述の通り荘園時代に当村の存在が認知されていた史実はなく、存在する古文書には「農民が二人だけとなった」とあことから寒水村には四十数年間の記録が存在しない歴史の空白であることなどからも、寒水村に領家職が置かれていたことがなかったことは明らかである。

 また、「中世、承久三(一二二一)年に承久の乱がおこると千葉一族の東胤行も参戦し、戦後の論功行賞で山田庄の新補地頭として補された。それと同時に寒水村には領家職を踏襲するとして東氏配下の寒水遠藤氏が配された。」とあるが、東氏の入郡により領家職を踏襲する必要はなくなっており、寒水村に遠藤氏が配置されたのは東氏の時代の末期になってからのことである。

 更に同氏は、「白山信仰と寒水掛け踊りの成立」の記事の冒頭に「中世、寒水は山田庄に属し、領家職(地頭)をおく小駄良街道の東側の拠点地域であった。」としているが、「領家職」については全く無関係である。
 

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