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明宝寒水史は校正が不十分で誤植があります。当サイトの正誤表をご参照ください。

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〒501-4302 岐阜県郡上市明宝寒水

寒水砦跡

 明宝寒水には、応永年間(1394〜1427)の初め頃に土岐国衡流気良頼数が築いた砦の跡がある。

 「濃州寒水村の明神山に三浦某という平家の落人が居住した城があった」という伝説があるが、三浦の氏姓は坂東平氏(東国平氏)から出自したもので西国の平氏の系統に三浦氏を名乗る武将が存在したという史実はない。
 坂東平氏の平維衡(生没年不詳)は鎌倉幕府の家臣となることを潔しとせず伊勢国に下向し、その子孫は西国平氏となった。
 この維衡の孫に正盛(生年不詳〜1121頃)がおり、その正盛の孫が清盛(1118〜1181)である。
 元暦二年乙巳三月二十四日(1185・5・2)に壇ノ浦の戦いで源氏に敗れて滅びた平氏の一族残党のことを平家の落人と称する。
 寒水で平家一族が合戦をした史実はなくその一族が住みついた落人部落という可能性もない。
 郡上郡内やその近隣で古文書等に見える平氏の名は、平氏の残党狩りのために地頭の職名で配置された東胤行一族の坂東平氏のことであり落人平氏ではない。

 図説美濃の城(1992・7・23郷土出版社発行)には「文明年間(1469〜1486)に東頼数が寒水に城を築き、その後に遠藤善右衛門(生没年不詳)が居城した」とあるが「図説美濃の城」内容に誤りが多く、寒水に東氏が居住した事実はなく、遠藤善右衛門が在住するようになったのは数代後のことである。
 白鳥町史に「寒水村には東頼数(生没年不詳)の城があって居住した」ということが記されているが、これは気良頼数を錯誤したもので東頼数は現在の八幡町に館があった常縁(1405頃〜1484頃)の嫡嗣子でその跡を継いだが自身は京の都に在住した。

 寒水に砦があったのは、常縁の父胤綱(後の益之)の時代以前のことである。
 土岐氏一族の国成が気良庄気良村に居住するようになりその子頼数(けらのよりかず、生没年不詳)が地名に因んで気良氏を名乗った。
 円建武式「武者所結番定文写(延元元年(1336)四月)」に「気良頼数叔父土岐三川権守国行」の名がみえる




 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将源光衡(1159〜1206)は美濃国土岐を本拠とするようになって土岐氏の祖となったとされる。
 その孫に国衡(生没年不詳>)や光定(生年不詳〜1281)など七人がおり、国衡の曾孫で土岐氏六代目に当る国成(生没年不詳)は嫡嗣子頼数(1345頃の生れ)とともに気良庄の気良川河口辺りに館(屋形)を構えて居住し気良氏を名乗った。
 光定の曾孫で土岐頼忠の子頼益(1351〜1414)は気良頼数と同じ美濃土岐氏七代目で応永二年乙亥(1395)頃に九代美濃守護になっている。
 系譜にすると次のようになる(○数字は土岐氏美濃守護の代を示す)。
 土岐氏の祖光衡@─光行(1180頃〜1249)A┐
┌────────────────────────┘
├国衡B──国村──国氏──国成──頼数(気良氏を名乗る)
└光定C──頼貞─┬頼清─┬頼康E=養子康行(頼雄の子)F
         └頼遠D├頼雄──康行
             └頼忠G─頼益H─持益I=養子成頼J

 因みに明方の地名は山田庄から見た東の方のことを里人が明保(あけのほう)と称したことから後に明保(みょうほう)の地名となり、方向を示す場合には「方」の文字が充てられるようになってから「明方」と記して「みょうがた」と読まれるようになったものである。

 東頼数の祖父益之は幼少の頃に子宝に恵まれなかった祖叔父(実名不詳、号素胱)の養子となり、六代美濃守護土岐頼康を烏帽子親として元服し名を胤綱と改めた。
 この時、頼康から山田庄に隣接する気良庄の小駄良川流域の良知(領地のこと)を与えられ、後に胤綱は良知内に館を設けた。
 この頃、山田庄の東氏一族は古道川上流を経て寒水の地へ入植しており、小駄良川河口近くに館を設けた胤綱は、応永十年(1403)頃に小駄良から寒水の地へ通じる往還道を設けた。
 これにより馬塞谷辺りから桂本会津辺りにかけて人口を増殖させ、寒水の里を形成させた。
 この気良庄へ進出した東氏を警戒する気良頼数が寒水川の左岸側の山上に設けたのが寒水砦である。
 応永十六年己丑(1409)に九代美濃守護頼益が気良庄中保(なかのほう、現在の八幡町美山辺り)まで侵攻してきたが、これは気良頼数が東胤綱の動きについて何らかの知らせをしたことによるものと思われ、この後の間もない頃に気良頼数は他の地へ移されている。
 胤綱は寒水川上流域から伊妙峠辺りを越えて気良川右岸側上流域へも入り西気良の人口をも増殖させた。
 
 同名であることから寒水城主であったと誤って伝えられている東頼数は、嘉吉元年辛酉(1441)頃に小駄良川流域の気良庄小野の館(現在の八幡町中坪地内)で常縁の長子として生れ元服した時に縁数を名乗り、文明十六年甲辰三月(1484・4)に父常縁が亡くなるとその家督を継いでその後に十一代美濃守護成頼(頼益の子持益の養子)の偏諱を賜い名を頼数と改めた。
 長享年間(1487・1488)の頃、遠藤盛胤(常縁の末子とされるが疑わしい)が木越城を築城して寒水及び小駄良を領し、盛胤又はその子胤好の時代に家臣の遠藤善右衛門を寒水の地頭に置いた。
 寒水に屋形(館)を築いて此処に居住した善右衛門及びその子孫は、代々木越城主胤好、胤好の子胤縁、胤縁の子胤俊及びその弟胤基に仕えて寒水遠藤氏と称された。
 前述の寒水に居住した三浦某は寒水の地頭として配置され遠藤善右衛門の家臣で馬塞谷辺りに居住し、遠藤善右衛門とともに守り本尊の妙見大菩薩を勧請した。
 天正十五年丁亥八月(1587・9)から天正十六年戊子(1588)までの間に木越城主及び郡上八幡城主の両遠藤氏が羽柴秀吉によって転封させられ、このとき寒水遠藤氏の一族の殆どが寒水の地を離れた。
 砦があった山の麓には尼寺があったという伝説があるがこれは気良頼数が寒水砦の大手側に設けたものでり、郡上八幡城主遠藤慶隆(1550〜1632)の時代には朽ちたお堂が辛うじて残っており残っていたものと思われる。

 羽柴秀吉は天正十年壬午(1582)から全国的な検地を始め、天正十九年辛卯(1591)の国絵図と御前帳(検地帳)は後に太閤検地帳と称されるようになった。
 徳川家康は天下を掌握した証として太閤検地帳を基に国絵図と御前帳(郷帳)を作成させ、慶長六年辛丑(1601)の美濃一国郷牒及び元和二年丙辰(1616)の美濃国村高御領知改帳がある。
 いずれも郡上郡明方筋でははたさ(畑佐)村、ゆかけ(弓掛)村、長尾村、けら(気良)村及び西けら村は記されているが寒水(かのみず)村は記されていない。
 これは木越城主が転封されてから和田治郎左衛門が寛永二年乙丑(1625)頃に寒水へ来るまでは寒水に農民がいなかったことによるものであろう。
 このほかに正保四年丁亥(1647)「寒水村高弐百八拾壱石」、元禄十四年辛巳(1701)、延享三年丙寅(1746)及び天保五年甲午(1834)の郷帳などがある。

 なお、荘園時代には寒水郷の存在そのものが認知されていなかったことから後の大谷村と共に気良庄及び山田庄のいずれにもその存在記録がない。
 山田庄の東氏一族は寒水郷から後の伊妙峠を経て西気良郷を形成したが、寒水郷内では寒水川の左岸側への入植を避けていたことが窺える。
 寒水村の左岸側を開発したのは八幡城主慶隆の命を受けた和田次郎左衛門正乗である。


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